■ エマオの村への道すがら / ルカ24:13~32 (2014-04-27)

エマオという村へ向かう二人の男があった。 彼らはイエスの弟子達であった。 その日の朝、イエスの死体に香油を塗りに行った女達から、にわかに信じ難い情報がもたらされた。 イエスの遺体が納められた墓の蓋石は転がしてあり、中は空っぽでイエスの体は見当たらず、途方に暮れていると御使いが現れて言うにはイエスはよみがえられて、死人の中を探しても無駄、とのことであった。

それは実に滑稽な話であった。 その日、弟子達にとっては何が何だか分からないまま、陽が落ちようとしていた。 二人の弟子が小声で話し合いながら歩いていると、いつの間にかイエスが二人に伴っておられた。 イエスが言葉を挟まれた。「あなた方二人は何を話していたのですか?」

有名な「エマオの村への道」の話である。 イスラエル・ツアーへ参加した26年前、エルサレムの手前で「エマオへの道」と書いた小さな看板をバスの中から見たことを思い出す。 あの道を歩いてみたかったな、と今は考えている。 何かが起こりそうな予感もするし、何が起こらずともいい。 案外その方がイエスを偲びつつ歩けそうだから。

二人の弟子はイエスの顔を見ても、彼であると認識出来なかった。 私は個人的に「そんな筈はないだろう。」と考えてきたが、最近それが逆転した。 例えば、である。 今はどこの銀行でも、ロビーで客の世話などしている女性がいる。 いつも見かけて顔を覚えている。 着ているのは銀行のユニホームであり、振り込め詐欺予防の派手なタスキも掛けている。 ところがある日、街角でその女性を見かけたので、ハッとした。 「この人、誰だっけ。確かに会った覚えがあるぞ・・・」しかし、思い出せない。 出会った場所が違う、服装が違う、それだけで記憶が整わない。 そう、頭の中にインプットされたのは、その人がいる場所、身につけている服装という出来上がったイメージであった。 またファミレスで働いているお母さんには、スーパーでばったり出くわした。 さあ、誰だっけ・・・? 思い出せない(笑)ので、声を掛けたら、彼女は言った。 「皆さん、そう仰います。」良かった、皆さんも認識出来なかったのだ。

以前、二人の弟子達はイエスを殆ど毎日、頻繁に見詰めていた筈である。 群集に囲まれ、弟子達を引き連れ、奇跡を行い、神の国の福音を説いておられたイエス。 そして主は十字架の上で殺された。 顔を歪ませ、苦汁に満ちた横顔は忘れられない。 そしてイエスは布に巻かれ、あきらかに墓の中に納められたのである。 弟子達の脳裏からイエスは過去の人となっていた。 すると今、彼らの横を歩きながら会話する人は、未知の人である。 随分人懐こく、人の話に割って入る彼は多少の変わり者かも知れないと思えた。

やがてイエスは二人に向かって旧約聖書から説き始め、メシヤは必ず殺され、そしてよみがえると約束されたことを説明された。 それでも二人の霊的眼は開かれない。 「ああ、信仰の無い人たちだ。」イエスは嘆かれた。 やがて陽も落ちて暗くなり今夜の宿を見つけると、二人の弟子はイエスを招き、話の続きをと願った。 その晩、夕食のテーブルでイエスが神の祝福を祈り、パンを裂いて二人に与えた瞬間、二人の目は開かれた。 そのとき、イエスは目の前からすっと見えなくなった。

どちらともなく、二人は言った。 「ああ、道々あの方と話をしているときも、我々の心の内は熱く燃えていたではないか。」

好きな聖書の言葉。

詩篇119:130 『みことば 打ち開くれば 光りを放ち、愚かなる者を悟からしむ。」 聖書の言葉に自分が直接向き合うなら、その目と心に神の言葉は光を伴って飛び込んでくる。 そのとき、「どんな者でも」御霊の神によって人は悟らされる、というのである。 人間、心の扉が閉じられていては何も感じない。入り込めない。認識できない。閉塞状態である。 仮にである、内に燃える思いがあったにせよ、心の扉が御霊によって開けられなければ、人は神の前に出られないのである。

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