■ 私の人生、私が主語 / マタイ21:1~14 (2014-05-04)

私の人生、私が主語であり、私が主格である。 そしてこれからも同様なのであろうか。 単なる宗教であるなら、それもよかろう。 自分の取り組みに満足し、誇るもよかろう。 だが、キリスト信仰は違う。 彼は永遠に生きておられる方である。 私達は宗教をしてはならない。 あくまで信仰であり、彼と共に生きる道である。 「わたしが道であり、真理であり、生命である。」ヨハネ14:6前半

ガリラヤ湖に朝日が眩しい。 弟子達の目の前におられる方は、よみがえられたイエスであるが以前と同じでは無かった。 よみがえられた主に対しては目のやり場に困ったことだろう。 女達は御足を抱いてイエスを拝んだけれど、男共には出来ないことだった。 そして弟子達の心に負い目があった。 結局、彼らはイエスを否定し、見捨てた。 これこそ彼らに共通した苦い思い出であり、心に傷が深く残っていた。 まさに今、目の前におられる主は、気楽に声を掛けられない方となってしまわれた。

イエスが声を掛けられた。 「さあ、来て朝の食事をしなさい。」 爽やかな朝の空気の中で、弟子達だけは重苦しい時間だった。 果たしてその時のペテロ達の心中や如何に・・・である。

三年間、弟子達はイエスと寝食を共にし、旅の空を眺めた。 イエスは彼らの人生に大きく輝く存在となられた。 イエスといると、聞く言葉、見る景色、人々の喜ぶ顔、すべてが彼らの人生にとって忘れが難いものだった。 このまま、人生を終りたいと思った程であったろう。 だが、イエスはその為だけに天から来られたのではない。 ヨハネ14:6節後半 「わたしを通してでなければ、誰ひとり天の父のみもとに来ることは無い。」

そしてイエスは律法学者、祭司、ローマ兵に捕らえられ、不条理な裁判で審判が下され、極悪人として十字架刑に処せられた。 彼らの心には大きな空洞が残っていた。 イエスの存在以外に、それを埋めることは出来なかったがすべては過去となった。 彼らの心に生きた主は不在となった。

確かに目の前におられる方はイエスである。 だが違う。 分からない、何もかもが。 イエスを見失った彼らに助けはあるのか? もし、なければ彼らの行く道はどの道か? 私達も同様である。 私の人生、主格は私、主語は我。 それしかない。 救われてクリスチャンとなったけど、仮にキリストを見失っては希望の星や太陽が輝く道など無いのである。

マタイの福音書に2羽の雀は1アサリオン(最少額の銅貨単位)とある。 ルカの福音書には5羽の雀が2アサリオンとある。 4羽買うなら本来2アサリオンだけど、1羽はただにしときますよ、ということである。 しかし、その1羽の雀でさえ天の父は忘れてはおられないと聖書は言う。

ならばどの空に「我が道を飛ぶ雀」がいるだろうか。 み姿は見えずとも、今日も私を心配してくださる方、キリストがおられるのだから、 何も思い患わないで生きたいものだ。

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