■ 生ける水 / ヨハネの福音書4:1~15 (2014-06-08)

世の中、イエスに出会った人は決して少なく無い。 しかし、本当にイエスに出合った人は少ない。 その意味は、イエスによって変えられた人生は決して多くは無いということである。

サマリヤ地方にあるスカルという村。 その村はずれには、ヤコブが残したと言われる井戸があった。 村人が重宝している井戸であった。 凌ぎやすい朝夕には大勢の人々が桶を持って水を汲みに来た。 しかし、真昼間の12時といえば一番暑い時間帯でもある。 誰もその時間に水汲みに来る者はいない。 だからこそ、その時間帯に水汲みに来る一人の女性がいた。 目的は人目を憚っての水汲みであった。 イエスはガリラヤへ上ろうとしていて、サマリヤを横切って旅しておられた。

ユダヤ人がサマリヤ人を異邦人扱いしていた理由は、およそ7百年年前(今からは凡そ2700年前)の時代からであった。 アッシリヤ帝国により陥落したサマリヤ(北王国イスラエルの首都)には大勢のアッシリヤ人が入り込み結婚を繰り返した結果、イスラエル人はイスラエル人ではなくなった。 それ以来、北の国らはイスラエル民族がいなくなったのである。 サマリヤ人はエルサレム神殿詣でを許されず、非常に仲の悪い者同士となっていた。

ヤコブの井戸の淵にイエスは腰を下ろされた。 弟子達は町に食料を買出しに行っていた。 誰もいないと思った女性はそこにユダヤ人のラビ(教師)が腰を下しているのを横目に見て、ふと嫌な予感がしたであろう。 早めに水を汲んでその場を離れたかった、と思われる。 ところが彼女の予想に反して、かの男性が声を掛けて来た。 「わたしに水を飲ませて欲しい。」 彼女は素っ気無く答える。 「あなたユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人の私に水を求めるのですか?」

イエスは言われた。 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

イエスだけが生ける水である。 それでも人類はイエスに対して、それ以上の期待をしていなように思う。 イエスは十字架で死なれたヒーローだけなのか? だからこそ、十字架は装飾品になれたのか? 祈りの最後に言う「イエスの名前によって祈ります。」はお飾りだろうか。 果たしてどれだけの教会が「キリストの教会」となっているのだろう。 確かに尖塔のてっぺんには十字架がそびえている。 礼拝堂にも十字架がある。 だが、彼のすべては決して十字架で終ってはいない。 彼はよみがえられたではないか。 ここが全てである。 週の朝早く、イエスは墓からよみがえられた。 あの朝以来、人類は180度変えられた歴史を歩み始めたではないか。

2千年の間、ありとあらゆる分野と領域で現実の変化を目の当たりにしながらも、キリスト教会は実際生ける水を飲んだのだろうか、思わずにいられない時がある。 人々と教会は、(救い主)キリストよりも、キリスト教神学に右往左往しエネルギーを費やした。 生きて働く神よりも、人間が動き回るパフォーマンスが持て囃される。

イエスはサマリヤの村のいち女性に「生ける水が誰か」を説明された。 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

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