■ 霊とまことによる礼拝 / ヨハネ福音書4:16~30 (2014-06-15)

キリスト者に求められる礼拝姿勢を、イエスがサマリヤ人女性に向かって語られた。 「霊とまことを尽くして礼拝せよ。」 この言葉を改めて聞くと、私を初めとして反省せざるを得ない人の方が少なく無いかと思う。

日曜日の礼拝、それはイエスがよみがえられたことを記念する故である。 「日曜はキリスト教会の礼拝する日である。」、なんて思いはこの際捨てるべきだ。 イエスがよみがえられたということを基点にすべきである。 よみがえられた方を礼拝するのだから、礼拝者の心としてキリッとした良い意味での緊張感と、罪赦された開放感が交錯してこそのものだろう。

イースターはカレンダーに収まっているべきものではない。 毎週の日曜礼拝がイースターなのだ。 彼の蘇りが無ければ、日曜に集まる意味など皆無であることを知るべしだ。

霊を尽くすとは、クリスチャンであればこそ理解できる領域だ。 イエスを信じ受け入れたのであるなら、何びとであろうと聖霊を内受している。 生まれたままの人間ではない筈である。 だから本来、自我に導かれての礼拝などあり得ない。 皆、内なるキリストに導かれているからこそ、礼拝に臨む者としての心を知るのである。 去りし一週間が多忙であれ、悩み多き日々であれ、それらを背負ったままで礼拝に出たら良い。 そして礼拝ではキリストの前に全ての荷を下ろしたらよい。 つまり現状と人生の環境を否定せず、逃げもせず、あるが儘の自分というものを神の言葉と臨在の下に曝け出したら良いではないか。 礼拝の主客は神である。 礼拝には儀式よりも先行すべきものがある。 生きて働かれる唯一の主なのだから、礼拝するものが同じ思いに居なければ何の意味もない。 そこは、あなたの霊と御霊なる主が向かい合い、触れ合う場所である。 だのに、「よそゆきの姿勢」とか、「忍耐と繕いの姿勢」「諦めとおざなり姿勢」の礼拝で、主と混じりけのない触れ合いなど有り得ない。

「まこと」とは嘘偽りの全く無い心である。 私達が正面きって主の前に出られないとしたら、自分を偽っているからだろう。 自分を偽るとは神を偽れるという浅はかな考えが根底にあるからだ。 人間、誰だって真っ白な心と生き様などしていない。 義なる聖なる主の前に、隠れ通せることなど微塵もない。 蚤の糞ほどの罪でも主の御目は、お見通しである。 それでも、礼拝に参加する恵を頂いたのだ。 そこで荷を下ろし、そこで誠を尽くさずして、祝福の帰り道があるだろうか。

サマリヤの女性には唯一の恥部があった。 今、彼女が同居している男性は夫ではなく、6番目の男であった。 彼女が人目を憚って水汲みに来た理由がそこであった。 イエスは彼女とのやり取りの中で「あなたの夫を此処へ呼んで来なさい。」と言われた。 いみじくも急所を突かれた彼女は、正直に答えた。「私には夫はありません。」 そんな彼女にイエスは人生相談的受け応えでなく、何と礼拝に必須な心備えを説かれた。

ヨハネ4:22~24 『救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』

どの国民であろうと、民族であろうと、神の御目に差別はない。 イエスを信じて受け入れ、主と共に生きる魂と霊を創造主は求めておられる。 この偉大なる主の前に出られる幸せが礼拝にあるのだ。 私達の内なる些細な疑念や自我の束縛が、主の栄光を阻むことなど出来様が無い。 神はいつだって必ず勝つ方である。 時間を無意味に引き延ばさないで、平安と誠の霊と心で礼拝に向かい、新しい週を迎えようではないか。 そこから新しい人生が始まる。

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