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■ 福音に福音たる所以 / ガラテヤ人への手紙1:1~19 (2014-06-22)

福音が福音である理由は、何処にあるのだろうか?
それは、「許される理由、無き者が愛されて赦された」ところにある。
その愛こそがアガペーという、この世で出会えない異質の愛である。
 

 福音は宝くじではない。
 宝くじの大当たりは誰もが幸せ感いっぱいとなり、飛び上がって喜ぶだろう。
しかし福音に出会えた者は、そういう感情は全く無い。
 儲かったという分野ではないが、やたら嬉しいのである。
 天にも昇る思いもあろうが、本当に全てから解放された喜びがある。
 

 福音は私達に喜びを与える程度のものではない。
 消えない、終らない、更に発展する人生への希望と、人間性への問い掛けが続く。
 弱点や修正すべき点、矯正されるべき点を指摘されるが、「自分で何とかせんかい!」の世界ではない。
イエスと生きる所に解決が為されて行くのである。
 

 福音は時として苦い。
 心刺されることもある。
しかし、だからこそ福音である。
 呑み下す瞬間、本当に己が人生を失うかと思うほどの決断が伴うときもある。
そこでこそ信仰というものに出会うのだ。
しかし、なぜかそれは口にも腹にも甘い。
 詩篇119:103『あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。』
 更にエゼキエル3:3『そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。』
 

 人は誰でも、初めから喜んで「神のことば」を自分の腹に納めるわけではない。
 人間は初めから神のことばに対して前向きに生きたわけではなく、必ずと言えるほど、偏見を持っている。
 嫌悪したことだって私にある。
 自然界において人間だけが創造主に対して不従順な存在である。
そんな生まれついての性質であるから、福音とて歓迎されたわけではない。
その様な人間世界に降りて下さった神の御子イエスは殆どの人間に否定された。
イエスこそが福音の本質その方であったのだが・・・
 

人間にとって神に拾われ、その寵愛を一身に受けることは、人生で初めて知ったアガペーであった。
しかし、ガラテヤ人への手紙でパウロは悲しみ嘆いている。
1章6~7 『私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、他の福音に移って行くのに驚いています。
 他の福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。』
 


これは昔も今も同様である。
 唯一まことの福音(キリスト)から離れることは、自ずとして神から離れることだ。
 私達人間とは元来そういう指向性を持っていることを、クリスチャンこそが認識する必要がある。
 他に福音はない。
 心惹かれる言葉も、理屈も教えも世の中には満ちている。
 心身を楽しくさせてくれる世界なら、どこにでもある。
だが、福音は無い。
 如何なる趣味、好奇心、活動、であっても、福音にはなれない。
 選ばれて救われて、罪赦された福音こそ、私達の宝である。
 

 

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