■ ベテスダの池 / ヨハネの福音書5:1~16 (2014-07-06)

エルサレムの城壁、「羊の門」に近い場所、「ベテスダの池」という場所があった。 この池の水面はが時として動いた。 間欠泉の作用か、又は地下を水が流れていたからか定かでない。 当時の人々が信じていたこと。 時として天使が降りて来て、水をかき回すのでその瞬間水面が動く。 そのとき、一番先に池に入った者だけが如何なる病であろうとも癒されるという。 特に重病に冒された人たちは、今か今かと目を凝らして水面を見ていたらしい。 実に気長であるが、治りたい一心がそうさせた。

一人の男は38年間、動けなかった。 彼とて毎日水面を見詰めていた一人だが、いつも先を争って入る人が優先し、結局取り残されてしまった。 通り掛かかられた主は、ふと彼に目を留められた。 男の傍らに行かれて主は言われた。「良くなりたいか。」

ここで私は気になった。 「本当に良くなりたいからこそ、そこに伏せっていたのに何故、主は敢えて言われたのか。

イエスは男性に確認された。 『あなたは池に入りたいのか?それとも本当に良くなりたいのか?』 そしてイエスは言われた。 「起きて!あ床を取り上げて歩け!」 (聖書は平坦に理性をもって語るが、私の中ではこういう響きだったと想像する。)

すると彼は立ち上がって床を取り上げて歩いた。

よく考えると凄い場面だ。 先ず、彼はイエスを知らなかった。 何処の誰か、名前は何か、男はは何一つイエスという方を知らなかった。 と、言うことはイエスに対する信仰など微塵も無かった。 だが、彼は立ち上がった。 救い主が一喝されたかの様なみ声によって。

私達はクリスチャン人生で、他の何かと混同していることが決して少なくない。 つまり何が一番大切であるか、ということである。 そして人はさほど重要でも無いことに拘ってしまう。 結果、一番大切なことから目を離すことになる。

クリスチャンは、もっともっとキリストと交わることを深めるべきである。 端的に言うなら、「キリストのものとされた」のに、なぜか別のことに拘っている。 キリスト教会なのに、礼拝及び以外でもキリストを感じさせない時間や会話が多い。

交わるとはお祈りだけではない。 目を閉じて祈ることだけではない。 仕事中、運転中、電車の中、いつだって主イエスと会話が出来る。 キリストの名前を口にする瞬間が、「イエスのお名前によって祈ります。」だけでは余りに淋しい。 もっと気楽に頻繁に心の主、友人、師、先生に向かって語ろうではないか。

あのとき、天の父は主イエスに対して、神の力と神の知恵と、神のことばを与えられた。 今でもそうだと思う。 彼は私達の内におられる。 彼を直接、心にお迎えしたからこそ、私達は救われた。 イエスは一番近くに居て下さるのだ。 『私の話し相手はイエスです。』くらいは、たまにでも言って欲しい。 覚えよ、イエスの一喝で起こり得ない出来事がベテスダの池の畔で起こったことを。 この世の言い伝えを信じていた男でさえ、主のみ声一つで見事に立ち上がったのである。 そしてユダヤ人は、そのことで腹を立て、イエス抹殺に突き進んだのである。 それはイエスが安息日に彼を癒されたからである。 38年間歩けなかった男が歩いた事実よりも、安息日を取り違えた人間達の言い伝えの方が重要だったからだ。

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