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■ イエスというパン / ヨハネの福音書6:27~52 (2014-07-20)

世人の中のほんの僅かかもしれないが、従事する労働において喜びや生き甲斐を感じている人も多々おられるだろう。
そういった人々は幸せ者と言える。
 私達は生きるために働く。
そして働くために食す。
 食するとは働くためか。
 昔、内村鑑三先生が言われた。
 「この世において労働とは人間にとって最高の快楽である。」
 懸命に働いている最中、人は家庭の問題や人間の死の問題などから解放されるからだろうか。
 

イエスは言われた。
 (「消化して)無くなる食物のために働くのでなく、永遠に残る食べ物の他面い働きなさい。」
 弟子達は聞いた。
 「私達は神のわざを行うために何をすべきでしょうか。」
イエスは答えられる。
 「あなた方が、神が遣わした者(キリスト)を信じること、それが神のわざである。」
そう、クリスチャンは、その初っ端から、神のわざに出会い栄光を仰いでいたのだ。
 

 「信じる」とは私達の常套句である。
 日曜日だけで何回も口にする。
 一年で何百回も口にする。
 生涯で数え切れないほど口にする。
しかし、である。
 「信じる」とは神に寄りすがることである。
 寄りすがるとは、すぐ傍に行ってすがる程のことである。
それ自体で信頼しきっている態度と心を現している。
 

パスカルの遺訓
 「信仰とは神に賭けることである。」
それを聞いて私は思った。
 神が私達に賭けて下さった。
どうなる者か分からな様な者だけど、成る者として神は私に賭けた。
 

 信じるとことは誰にも出来る。
 信じ続ける人はさほど多くない。
それでも信じて祈り姿は人間の最も美しい姿に思える。
 「信じられる」のではなく、信じるのだ。
 受身ではなく能動的なのだ。
 文字通り、信仰は賭けであろう。
だが、神に賭けるとは外れが出ても、神に賭け続けることだ。
 

あなたはイエスというパンを味わったことがあるだろうか。
イエスに生き、イエスと歩み、イエスに賭ける。
 何故ならイエスを見る者は父なる神を見る(ヨハネ14:9)からだ。
36年クリスチャンをさせていただいて、今ほどイエスに向かいたいと思う日は無い。
イエスという天からの生きたパンを食す。
 「わたしがいのちのパンである。」(ヨハネ6:35)
 「わたしは天から下って来た生けるパンである。」(ヨハネ6:51)
 「わたしが与えようとするパンは、世の(あなたのために、私のための)いのちのためのわたしの肉である。」(同上)
 

もし、あなたがクリスチャンであるなら、生きたパン、永遠のパン、イエスといういのちのパンを食べようはないか。
 私が独り燃えているのだはなく、イエスが私に迫って下さったのだ、と思う。
 

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