■ もしあなたが神の子なら / マタイ4:1~11 (2014-08-03)

イエスだけに許されたこと。 それは「イエスは悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」ということ。

人は誰であっても試みに会うため、御霊に導かれることなど無い。 人間は神の霊によって100%支配されることなど出来ないからだ。 だから、決して自分というものを過信してはならないし、サタンを侮ってはならない。 そうでなければ、必ず「誘惑する者」(サタン)の罠に落ちるからだ。

イエスは私達人間がサタンの手に落ちることを教えるために、敢えてそういう体験をされた。 彼とて「神のことば」によってサタンを退けられたのである。

40日四十夜、荒野における断食で空腹と渇きと体力の限界がイエスを襲った。 すると、である。悪魔は近づいて来た。 肉体にあって生きる者の弱点を悪魔は知っている。 悪魔は言った。 「もし、あなたが神の子であるなら、この石がパンになる様、命じてみなさい。」

「もし、あなたがクリスチャンだと言うなら・・・」 果たして、あなたはそういう言葉を心で、または耳で聞いたことが無いだろうか。 私は幾度も聞いた覚えがある。 「もし、神の子なら・・」は誰かの常套句でもある。 そういう出だしによって試みるものは近づくのだ。 大体において。。。聞いた途端、私達の心は揺さぶられる。 好感を感じる筈など、先ず無い。 その言葉の意味することは、「あなたが神の子である筈が無いだろう?」

サタンの巧妙、且つ狡猾な点は、先ず初めに疑問を投げかける、または自信をなくす様にくすぐり揺るがす。 そして最後の詰めは、断言をもって迫る。 特に信仰面で私達は「風に揺らぐ葦」であると思う。 例えば日曜日、礼拝で恵まれて意気揚々として帰る。 月曜、火曜、そして様々な世の攻撃が舞い込む。 ああ、人とは何故こうも弱いのだろう、と頭を抱えるとすれば、悪魔は隣でニタニタと笑っているかも知れない。 しかし、この弱さの故に、主キリストが十字架に掛かられたではないか。 悪魔の最後の武器である罪と死を打ち破るのは、キリストの十字架とよみがえりだったではないか。

三つ目の試みは、地上の人間の多くが一度は心に思うこと。 「世界の栄華と権力を我が手ににすること」だった。 その条件を得るために、「伏して私を拝みなさい。」とサタンは言った。 サタンは人間の欲望をよく知っている。 心に刻んでおこう。 私達に力があるのでなく、主なる神と神のことばに力があるのだ。 主のみことばを信じるところに、結果として信仰を働かせることとなるのだ。 主を信頼するところにおいて、私達は神に守られるのだ。 パウロの言葉(第一コリント4:20)のとおり、『神の国は、(人間の)言葉でなく、(神を信じるところの)力にあるのです。』

榎本保朗師の言葉が鮮烈だ。 キリスト教信仰を持つことはやさしい。 しかし、キリスト教信仰に生きることは決してやさしく無い。 信仰とは持つものでなく、その信仰に生きることだ。 信仰は「たてまえ」のためのものでなく、信じる故の「力」である。 その力をいただくために、私達は「戦い」あるし、逃げてはいけない。 ここに信仰の醍醐味とチャレンジがある。 実にエイメンである。

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