■ 主、私と共におわしますれば / 創世記39:1~23 (2014-09-14)
人間はどこまで如何なる不条理にも耐えられるのだろう。 この点では私など本当に実にか弱い者だと思う。
聖書の箴言にこうある。 「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心に誰が耐えられるだろうか」18:14 人間にとって最も辛いことが不条理そのものではないだろうか。
創世記に登場するヤコブの息子、「ヨセフ」の人生は不条理の海に投げ込まれた様なものだった。 何一つ、彼に落ち度は無かった。 しかし、彼は次から次へと不条理の波に揉まれた。 それでも彼は自分の生を呪うでもなく、神に不満をぶちまけもしなかった。 そんな彼の姿勢が私達の胸を打つ。
彼には異母兄が10人いた。 ヨセフの母、ラケルは父が最も愛した女性だったし、父が年取ってから生まれた息子だったので、特に可愛がられた。 それがまた兄たちの妬みの要因だった。 そして神は夢を通して、ヨセフに未来の姿を見させた。 正直なヨセフが夢をありのまま説明すると、そのことで更に恨みを買う結果となった。 遂に兄たちはヨセフを殺す計画を立てるに至った。 妬みとは実に人間の罪の中でも最も恐ろしいものである。 イエスを十字架に掛けたのは、実に「妬み」からのものだった。
殺されるのは免れたが、ヨセフは奴隷としてエジプト人に売られた。 その家で働くポティファルという人はヨセフを知るにつれ、その人柄に惚れ込んだ。 彼は「神がヨセフと共にいて、ヨセフとポティファルの家をすべて祝福されるのを見た。」
しかし、ポティファルの妻が別の面でヨセフを気に入り、彼と寝る機会を狙っていた。 ポティファルが留守の日、家の中にヨセフ以外、誰もいないのを知ると、ヨセフを寝室に引っ張り込んだ。 しかしヨセフは神とポティファルの前に罪を犯すことなど出来ないときっぱり断り、寝室から逃げ出したが、彼女の手はヨセフの上着が残された。 ポティファルの怒りを買ったヨセフの行き先は、暗い牢獄だった。
獄の中では鉄の足かせ、鉄の首輪がヨセフを悩ました。 それでも主は彼と共におられたので、牢獄の管理人はヨセフを信用し責任ある立場を任せた。 ここまでの間、聖書はヨセフの言葉を語らない。 呟きも言い訳も叫びも聖書は伝えない。 「屠り場に引かれて行く子羊の様な」(イザヤ53;7)ヨセフの姿を瞼の裏で追うと、そこにイエスが重なる。
だが創世記41:50~52がヨセフの当時の思いを伝えている。 ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」からである。 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである。
神はどうしてあの日、ヨセフを放って置かれたのか? 神はあの不条理の時、この不条理の時、どうしてヨセフの命と人生に介入されなかったのか? 神は正義の味方、スーパーマンにさえ成れないのか? 私達はついそう思ってしまう。
しかし、である。 主はすべてのとき、ヨセフと共におられたのである。 主はヨセフの一挙手、一投足、見過ごされなかった。 主は間もなく訪れる機会に備え、ヨセフという人間を育てておられた。
私達は順境な環境ばかりでは人格も信仰も煉られない。 逆境の日々が私達と信仰を掘り起こし、訓練する。 そして逆境の日々こそ、私達を守られる主が、一番近くに一時たりとも離れずに臨在されている。 私達には明日さえも見えないが、主は10年先、30年先も見えておられるのだ。
詩篇105:16~20 主はききんを地に招き、人のつえとするパンをことごとく砕かれた。 また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち売られて奴隷となったヨセフである。 彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、 彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。
王は人をつかわして彼を解き放ち、民のつかさは彼に自由を与えた。