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■ 初めに・・・・ありき / ガラテヤ人への手紙3:1~9 (2014-09-21)

マルティン・ルターが最も惚れこんだ聖書箇所は「ガラテヤ人への手紙」だったと最近知った。
この手紙こそ、福音そのものの中心をズバリと現しているとのことだった。
 手紙のテーマはキリストに出会って、信仰の道を突っ走っていたガラテヤ教会が何故ユダヤ教主義に走ってしまったかである。
その象徴するところが「割礼」だった。
 割礼はキリスト者に不可欠、と教えるユダヤ教主義の教師達がいたのであろう。
 

 私達日本人クリスチャンで割礼に悩む人はいない。
だが別の問題が立ち塞がる。
 教会から離れ、キリスト教から離れる人は決して少なくない。
 仮に理由がそれぞれあるにせよ、突き詰めるところキリストその方に拘るクリスチャンが少ないと言えないだろうか。
キリスト教会で礼拝し、キリストに従う洗礼を受け、クリスチャンと呼ばれるのに至ってのことである。
 

 『心で決心し、頭で信仰を考え、足はこの世を歩く。どうも窮屈で肩が凝り、この世を生き難いのはこの為か・・・』
 確かに私などもこういった類いの一部分がしがみ着いている。
その実はイエスという方、キリスへの拘りと関わり、傾倒が全く足りないからだ。
 

キリストの御霊が自分の中で縦横無尽に働かれるのを願わない。
 時として聖霊を厄介者として扱いかねない、この世での生き様。
それでも、こういう思いに気づくことは、主の少なからぬ語りが私の中に聞こえているからであろう。
 

 

 日本人である我々はキリスト・イエスを心にお迎えした。
つまり御霊で私達の信仰が始まったのである。
 

ところがこの方は私達の人生に非常な関心を持っておられることが日毎に理解出来る様になって来た。
すると人間は何となく肩身の狭い生き方が不都合になり、やがて人々はキリストから目と心を背け信仰を失った。
 若しくは初めからキリストと繋がっていなかったのか。
 御本人達に聞いてみなければ分からないことである。
 

 人間はどうしても、自分の力を試したい。
 自分の努力の実を見たいし、完成させたいことも事実である。
キリスト教は「神に信頼する生き方を求める」と言えるが、それを選択し突き進むのは私達である。
ここに人と神の協働が求められている。
 神がこの世と人類を造られたのは、これが目的だった。
つまり、私達の人生と思考は「初めに神ありき」なのだ。
だが、どこかで「初めに我ありき」に曲がってしまう。
 若しくは「初めに神ありき、でも終わり(選択権)に我ありき」なのか。
 

 

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