■ 助け主 / ヨハネ14:15~27
イエスは言われた。 『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』 ヨハネ14:16
イエスは「もうひとりの助け主」だと聖霊のことを言われた。 クリスチャンは聖霊を内受している。 してはいるのだが、実際聖霊に従っているかどうかは別の問題である。 父、御子、聖霊は三位一体の神である。 この三方は共通した神格を持っておられる。 ただ、それぞれの働かれるところと、働きの質に於いて呼び名が違うだけである。
キリスト者は聖霊と共に日々暮らす。 そこに聖書の意味と導き、祈りと黙想、感謝と願い、様々な部分で聖霊の助けを受けている。 だからこそ、私達は祈りの中で「助けてください。」という表現を恐れてはなるまい。 「主よ、助けてください。」と心から求めるところに、自ずと自分が位置している場所が示されている。 真摯に誠実を重ね合わせて、我が身の罪深さと救いを主に求めるときに、「・・・助けてください。」が口をついて出てくるのだと思う。 「・・・助けてください。」と祈り求める姿勢は主の前にあなたを謙虚にする。
助け主(聖霊)はあらゆる場面で私達を支え助けてくださる。 但し、どうしてこうも自分は自我の力と肉の性質の前に弱いのであろうかと嘆くものである。 肉の支配力に対して無防備なのか、罪その色に染まりきってしまっているのか、おそらく両方かと思う。
だが聖霊は実に謙遜な方である。 絶対に私達を支配しようとはしない。 私が自ら引き下がって、お願いしますという思いと祈りで居続けることが不可決だと思うくらいだ。 それは私の自我が余りにも強くて、信仰も良心さえも負けてしまうからである。 「私は何と惨めな者でしょう。誰がこの死の体から私を救い出してくれるでしょう。」と嘆いたパウロの言葉そのものである。 しかし、である。 その一行後に、「私は主イエス・キリストのゆえに神に感謝します。」と書いてある。 更に続く言葉は、人は何によって誰によって、救いの道があるかというパウロの信仰の言葉だった。
肉と御霊は、決して相容れない、そして両者共目に見えない存在である。 人は決めなければならない。 肉的性質に自分を任せ敗北の営みをとるのか、または聖霊の助けの下、キリストの勝利に与って信仰の戦いに生きるのか。 だが覚えよう、聖霊は「助け主」であることを。