■ 今日蒔く種はどんな種 / ガラテヤ6章1~10節

礼拝に関して天から舞い降りたかの様な考え方だった。 クリスチャンの礼拝には様々な意味が含まれている。 感謝、賛美、祈り、静聴、黙想、告白、嘆願、同信の友との交わり、励まし、慰め。 でも本当の中心は一つであると思った。 それは主との霊的交わり、出合いである。 それを期待しない礼拝参加は片手落ちではないだろうか。 私も長い間、礼拝に参加させていただいて来たが、この部分が曖昧だったと思う。 それが何なのか意識せずとも、励まし、慰めがあるとしたら、それこそ御霊なる主からのものであったのだ。 礼拝に臨む前から、主との出会いを期待している人は本当に幸せな人だと思う。 私達はもう一度、礼拝への態度と心を見直してみることは主の道に沿うことだと思う。

感情とは喜怒哀楽、ものの良し悪しに対して起こる気持ちだと辞典が言う。 我が魂の表現能力と反応が感情であろうか。 「われわれのかたちに人を造ろう。」と仰った創世記の言葉があるが、被造物の中で人間だけが備えているのが感情であるなら、神の祝福の賜物である。 感情的イコール怒りという日本人的な直結した考え方は貧しい理解力だと思う。

一言で言うなら感情とは素晴らしい機能だ。 労せず自然に伴い出される気持ちの表現は、時として不幸な結果となる場合もあるが、最も人間らしい証拠ではある。 感情はその人自身の生きる喜び、愛情、優しさ、そして主張、拒絶、否定、平安、情緒といった様々な場面の主導者でもあり、援助者でもある。 必要によっては主導者でもあろう。 芸術家達は遍く感情表現を大切にして生き、創作し、表現したのだから。

クリスチャンになってから、感情に関して特に考えさせられる。 感情は素晴らしいのであるが、感情が信仰よりも先立つことは好ましくは無い。 仮に感情がリードする信仰は決して長続き出来ないし、遠くない日に崩壊する。 早めにこのことに気づくことが大切だ。 先行すべきは主の臨在と主のことばである。

キリスト者に宿った聖霊こそが、常に中心であるべきだ。 それが人にとって一番幸せな位置関係だから。 ふらつかず、ぶれず、安定した目線と心は人を平和と安らぎの中に置いてくれる。 それは聖霊が神からの直接的な使者であるからだ。

聖霊が私の教師であり、導き手となっているとき、私の気持ち派落ち着き安定している。 聖霊を無視しない人生はすべての人との関係に平和をもたらす。 新約聖書が強調する最大事項の一つは、「キリスト者は聖霊に従って生きよ。」である。 キリスト者はすべて聖霊を与えられた。 つまり、聖霊を受けていない人はクリスチャンではない。 聖霊に拠るのでなければ「イエスは主である。」(第一コリント12章)と言い得ないから。

人は人間社会に色んな種を蒔いて生きている。 悪い種もあれば良い種もある。 そして人はやがて蒔いた種の刈り取りを必ずする時が来る。 悪い種は肉の種であり、やがては滅びを刈り取る。 聖霊によって蒔いた種は、永遠のいのちを刈り取ると聖書は言う。

感情に支配され肉の種を知らぬうちに撒き散らしている人は、やがて最悪な刈り取りをする破目になる。 家庭の崩壊、人は背を向け、信用を失い、嫌われ者になる。 それでもその人は自分が分からない。 聖書我これらを言うのは、クリスチャンを含めたすべての人に対してである。 聖書は実に、世に生きるすべての人の教本である。 決してクリスチャンだけのものではない。 神ご自身がすべての人類の神だからである。

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