■ アドベントⅠ 光りは闇に輝く / ヨハネ福音書1:1~14

光りは闇に輝く。 光りは昼間では輝けない。

ヨハネ福音書の書き出しは痛烈である。 「キリストは世の初めからおられた。キリストは神と共におられた。キリストは神であった。」

使徒ヨハネは三位一体の神をストレートに淀みなく表現した。 しかし、信仰において幼児であった私はヨハネの書き方にかなりの違和感を覚えた。 (何もそこまで書かずともいいのでは・・・) それから何年もの年月が経過した今、私はヨハネの思いが理解出来るというか、実にアーメン!と言えるようになった。

明るさの中で光りは輝けない。 だが、その明るさは時として義なる本当の明るさではなく、単に自分を正しいとする偽の明るさであったとしたらどうだろう。 それは別の光りを必要としないだけのことである。

エゼキエル書33章にこう書いてある。 『神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。 人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。 わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる。』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない。』

遠い昔の福音がここにある。 神は決して悪者(罪びと)であったとしても、永遠の滅びを望んではおられない。 別面、自分を義人とする者には容赦されない。 人は己を義と出来ない。 何故なら彼の義の基準は彼そのものだからだ。 人間は神を基準とする義を基準として考えるべきである。 「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)からである。

キリストは人間世界が神の前に闇であるからこそ、光りとなってこの世に降りられた。 闇に生きる人類の救いのためである。 しかし、闇の中にいる者が自分であることを悟れなければ、人は光りを求めようとはしない。

ヨハネは言う。 「闇は光りに打ち勝たなかった。」 闇は光りに負けたくない。 闇は光りに勝てないことを自覚しているからだ。

クリスチャンであればこそ、自分の中に闇があることを認めるべきだ。 キリストの光りが己の中の全てを照らし浮かび上がらせることを恐れてはならない。 アダムとエバはエデンの園で善悪の知識の実を食べた後、自分たちの恥部を隠し、更には神の目を逃れるべく木陰に隠れた。

私達は神に従わない、従おうとしない恥部を何によって隠すのだろう。 神の御目に隠し通せる筈も無いのに。 若しくは恥部を恥部として認めていないのだろうか。 そう、認めたくない私がいるのである。

闇は光りに勝てない。 闇はどれほどあがいても、もがいても神の光を締め出すことは出来ない。 「主よ、私は本当に惨めな者です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24) 私は昔、ローマ書が好きではなかった。 しかし、今は好きである。 「私は主イエス・キリストの故に神に感謝します。」と7章25節に書いてある。 暗闇と絶望の谷底で、彼は光りに出会っている。 これぞキリストの福音の力である。

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