■ アドベントⅡ 神は人となった / ヨハネ福音書1:14~18

クリスマスの原点とは、「神が人になった」ことである。 人間世界では時々、人が神になったと表現するが、そうではない。 神が人になったのだ。 これこそ人間世界の道理では、決して起こりえないことだ。 だがそれが起こった。 未曾有の出来事が起こった、と信じることが出来るか否か、ではなくて、信じた人は大勢いた。 絶対あり得ないと思われることが起きたし、それを信じる人々が仰山現れたのだから、信仰とは実に恐ろしいものだ。 人間そのものの目に見えない構造に、そういう部分があるということだろう。 それはつまり人間を造った創造者が存在したということだ。

キリスト教の真骨頂、それは神が人になったということと、それを信じた多くの人々がいたということだ。 世界の宗教の中でこれ程の中味と歴史を持ち、且つ学問として存在し続けることは実に不思議である。 土着で生きながらえた地域の宗教ではない。 単細胞な主張だけでもない。 摩訶不思議と思わざるを得ない。 つまりキリスト教は宗教ではないのである。 宗教でないなら何と呼ぶ。 それこそ、生ける神が人と生きることである。

ヨハネ福音書は他の三つの福音書とは、あきらかにかけ離れた部分を持っている。 それは主張そのものの質が違う点である。 客観的にみた記事ではない。 ヨハネの目はイエスの中に居ると言おうか、埋没している。

ヨハネ神学と呼ばれるが、人間が考え、試行錯誤する神学ではない。 霊性が先行しつつも事実と実体が伴っているのであって、最早神学ではない。

キリストをそう書かねばならなかったことが書かれたのである。

恩寵、それは「恵み」そのものである。 キリスト教専門用語である。 キリスト教、そのものを表現する言葉でもある。 何故なら神ご自身が恩寵であり恵みであるからだ。

ヨハネ福音書1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ことばは神であった。 ことばは神と共にあった。 以前は何となくしっくり来ない書き出しであった。 つまり私の感触では「書き過ぎ」か「入り込み過ぎ」であった。 しかし、この一年はしっくりどころか滑滑である。 何故か? ヨハネ福音書にヤラレタからである。 イエスが言われた。「わたしを見た者は父を見たのである。」 このことに気づくまで36年掛かったが、別に遠回りな道だったとは決して思わない。 つくづく主が導いて下さったと思う。 かえって今頃気づかされたことに感謝している。 せいぜい覚めるのが当然の年齢であるのに、今更熱くされて本当に有難いことである。

『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。』 ヨハネは如何ともし難い思いを言葉にしている。 心は張り裂けそうになるほど霊性が高まり、高揚し、叫んでいたいのに、彼は敢えて抑えつつ、何とか文章にした。 そんな思いでは?と私は勝手な想像をした次第である。アーメン!

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