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■ 苦しむは恵み / 第Ⅱ歴代誌12:1~14

仮に私が非常な困難の中に置かれたとして、どの段階まで「主は正しい」と言い続けられるだろう。 実際、自分にそういう時が来なければ分からない問題であるが、私にとってはまことに自信の無いテーマである。 耐え切れなくなったら神を呪うだろうか。 そして果たして耐え切れない程の試練を主は与えられるのだろうか。

レハベアムという人はソロモンの息子であった。 彼は人間的に見て決して良い王とは言えないが、戦略的な面では非常に長けていたと言える。

神はエジプトの王と膨大な数の軍隊を遣わしてエルサレムを攻めさせた。 徹底的にエルサレムとレハベアムを叩き潰す積りでおられた。 エジプト軍は南から上って来て レハベアムに属する防備の町々を次々と攻め取り、エルサレムはあわや風前の灯であった。 時に預言者シェマヤがエルサレムに集まったユダの王と参謀達を前にしてこう言った。 第二歴代誌12:5 「主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』」 すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。

出来そうであるが中々出来ないことである。 通常なら「仮に全員討ち死にしても、無条件降伏はしない。」とか、 「神、決して我らを見捨て給わず」と言って、敵軍に突っ込むだろう。 先の第二次大戦が実にそうであったのだから。 神国と自負したからか、またはプライドを下せなかったからか。 サムライの国故か。。。 だが、レハベアムは自分たちの罪を認めたのである。 彼らが神と神の教えを捨てたからだ。 「神は正しい・・・」と言った。 そして神はレハベアムを打ち滅ぼすことをされなかった。

神は試練というものを前向きな姿勢から与えられる、と思う。 だが、それを受け取る我々においては、前向きに受け取れないのが実情である。 試練は何となく「罰」というネガティブな意味にしか解さないからだ。 しかし、聖書は決してそうだと言わない。 試練とは我々が神に帰る道筋、きっかけ、動悸だと位置づける。

罪びとは試練によって神に立ち返る。 そういった場面は聖書に幾らでも出てくる。 ユダの王達も、放蕩息子も、パウロも、使徒たちも、サマリヤの女性も、異邦人達もそうだった。

そして理解出来ない試練の与え方もあった。 明治時代、「徳永規矩氏」、どう考えても、想像を超えるキリスト者であった。 極貧というよりも清貧と言うらしい。 そして神は彼の健康さえも奪った。 まるで日本のヨブだった。 家計は貧しくを超えて苦しく、病は重く、そして若くして天に召された。 確かに神は彼を試された。 そして、いかなる苦しみさえも徳永氏を神から引き離すことは出来なかった。 彼を支えたものが僅かにあったとしたら・・・ 両親思いの幼い子供たち数名と、甲斐甲斐しく彼を支える妻であった。 そして神が与え給うた、まばゆいばかりに輝く信仰であった。

人間100人いれば100色ある。 1万人集まれば1万の色がある。 だが、唯一、まことの神はただおひとりである。 その方の目的は一つ、それは人が神に帰ること、救いである。

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