■ 救い主 / マルコ2:1~12 (2015-01-18)

日曜日だけでなく、ウィークデイの中であっても、私達はどれ程主キリストに期待しているだろうか。 仮に何十年という長い間、祈り続ける課題があるとしても、果たして期待を持って祈り求めているかであり、変わらない希望があるだろうか。 神は既に聴いておられるのだから、その課題に関して祈りをやめるべきかも知れない。 また諦めていないなら、日々口説く祈るべきかも知れない。 聖書はそれぞれに導きのみことばを語っているのだから、それぞれの解釈と納得に任せるべきかも知れない。 イエスがカペナウムでペテロの家に滞在したとき、近隣から大勢の人々が訪れ、身動き出来ない程になった。 そのとき、イエスは神の国のことを話しておられたのであろう。 時に、脳卒中で倒れたと思われる病人が四人の男性に寝具ごと運ばれて来た。 入り口からは到底入れそうにないのを感じて、彼らはその家の屋根を剥がして、病人を降ろした。 日本の家とは造りも構造も違ったので、それ自体は特に荒っぽいものではなかったが、イエスは彼らの行動を見て「子よ、あなたの罪は赦された!」と宣言された。 イエスは彼らの信仰(思いから来る行動)を見られた、と聖書は語る。 (つまり頭で考えるだけじゃ駄目なんだよ、というメッセイジがここにある。) 本当に心でそう思うなら、次は行動である。 主に対する行動とはあくまで「信仰によるなら」、である。 「子よ、汝の罪赦されたり」の一言にはその家にいた人々もビックリしたであろう。 先ず驚いたり、困惑したのは担ぎこんだ四人だったかもしれない。 彼らはイエスの「そういう言葉」を聞くために吊り降ろしたのではない。 そうではなく「汝は癒されよ」であったからだ。 又、同席した数人の律法学者は心で呟いた。 (罪を赦すことは神だけなのに、イエスは神を穢している。) イエスはそれを察知して言われた。 「罪を赦すことと、病気を癒すことの何れが難しいか。 人の子が罪を赦す権威を持っていることを、あなた方が知るために。」 そう言ってから「あなたにいう、寝床をたたんで帰りなさい。」 すると彼は起き上がり寝床をたたんで帰って行った。 人々は口々に「こんなことはかつて見たことが無い。」と言って神を崇めた。 おそらく律法学者達は恐怖に包まれたであろう。 それはイエスが彼らの心を読まれたからだ。 そして罪を赦し、病気を癒された。 私達が最も見落としていること。 それは神が私達の心を読んでおられること。 人は神に対して心を包み隠す術を持たない。 人が神に対して最も無知な部分である。 次に、神にとって難しいことがあった。 それは人の罪を完璧に過去に遡ってさえ赦すことである。 それこそ病や怪我を癒すこと以上に難しいかも知れない。 だが神にはお出来になるという事実である。 今日、ここに置かれた私達でさえ、そう思う。 「もし神、この身を赦し賜るならば、我、我が魂をあなたに差し上げます。」 そして主キリストは仰せられた。 「子よ、汝の罪、赦されたり。」 アーメン、主よ。そのとおりです。

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