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■ ヨシャパテの道 / 第二歴代誌17:1~12

January 25, 2015

イスラエルの王の中で、私が非常に気に入っている人がいる。
ヨシャパテという王であるが、彼の人間性と主の前における生き様が堪らなくいい。
そもそも、男が金と力、地位と権力をすべて手中にした場合、大方が碌な生き方をしない。
あのダビデがそうだった。
その息子のソロモンもそうだった。
だが、ヨシャパテは違った。
聖書が彼のことを書き出す際にこう書いてある。
「主はヨシャパテと共におられた。」第二歴代誌17章3節。
と、いうことはヨシャパテは主と共に歩んだ、ということである。

その人が真面目だったからとか、善人だったからとは書いてない。
ヨシャパテはカナンの偶像を拝むことなく、神の命令に自ら従って生き、イスラエルがしてきた淫らで快楽的な偶像礼拝の慣わしに従わなかった。
そして彼の心はいよいよ主の道に励み、主と共に生きた。

私達日本人クリスチャンの弱点は、環境と風土に逆らえないことである。
逆らえない社会環境と風土に問題があるのだが、やはりその部分にどうしても乗り越えられないものがあり、大胆な信仰になれない。
そのこと自体、己が神道的クリスチャンの域を脱していないからだろう。

しかし、やたらめったら周囲の人たちに反対し逆らうのがクリスチャンということではない。
己が信じる道と立場とを説明して、一線だけは画すのである。
ある意味、日本人の国民性でもある、本音と建前をわきまえて?生きる習性をどこかで乗り越えてゆくチャレンジである。
榎本保朗師の言葉は心に痛いが真実である。
「キリスト教信仰とは、現実にあって建前どおりに生き抜くことである。」
アーメン
しかしアーメンが建前だけであってはならない。

そこにおいて風当たりが強かろうと、勇気が必要であろうと主が共に戦ってくれる場所である。
私だけが一人矢面に立つのではない。
キリストが共に立って下さるのだ。
ヨシャパテはそういう場面に立たされたし、大いに葛藤もあったろう。
しかし、彼はめげなかった。
なぜそれが出来たのか。
それは彼が唯一誠の生きておられる主を見上げていたからだ。

私達は何かにつけ、あまりにも周囲の目と言葉を気にしていると思う。
誰が何を言った?
寄付金は?お祝い金は?葬儀の香典は?
町内、自治会、学校、コミュニティなどで何らかの役を持つと、何かと周囲の目とことに気を遣う。
これだけ周囲の目を気にしていては、自分という存在と主張に自信や勢いもなくなる。
しかし、である。
どこからか突破口を開かなければ、一生同じ道を歩いてしまう。
悔いを抱えて死んで行くことだけは、何とかして避けたいし避けられるのだ。
やり直しは生きている内なら間に合うからだ。

先ずは主のみことばに生きること。
そして自分の生きる環境をすべてキリストに捧げよう。
そうすれば周囲と環境は神が働かれる領域となる。
そういう概念を具体的に捉えることだ。

主は私と共におられる、アーメン!
主はあなたと共におられる、アーメン!
つまり決断と勇気と信仰。。。それも大事だが、『何よりもキリストを信じる。』ことだ。

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