■ His way / ヨハネ21:1~7

新生賛美歌500番に『イェスがいなければ』という賛美歌がある。 とても好きな賛美歌であるが、残念にも二番までしかない。 自分だけで歌うために、四番まで書いてみた。 そこでふと考えた「いなければ」なんて、何となくネガティブに感じる表現である。 そこで「イェスがおられるから」という詞を書いてみたら、とても前向きに感じられた。 この歌の二番にこうある。 「イェスがいなければ 生きる術(すべ)無し」誠にそのとおりである。 人は働いて飲んで食べて生きるだけでは無い筈だ。 人間であればこその生き方(術)が有る筈だ。 生きる意味、喜び、共有、協力、そして晩年になって感謝と悔いの無い思いに浸れたら、どんなに人生に感謝できるだろう。 仮に短い人生でも生きる意味を見出せたら、何と素晴らしいことだろう。 そんな術があるのだろうか。 「有る」と歌詞は訴えている。 その人生に「イェスがおられるなら」だ。 同様に「イェスがいなければ 生きる術なし」なのだ。 イエスが復活された数日後、ガリラヤ湖の淵に弟子達数名がいた。 彼らにとって、イエスの復活はまだ意味を持たなかった。 薄暗い中でシモン・ペテロが言った。「私は漁に行く。」 淋しい言葉だ。 イエスがいなければ、何に対しても気持ちが伴わない。 弟子達の共通した思いであったろう。 三年間という時間は驚きと不思議と喜びの濃密な時間であったればこそ、非常に短く思われたであろう。 ペテロは魚を獲る能しかない男だったが、イエスは「わたしは、あなたを人を獲る漁師にしよう。」なんて言われたこともあった。 すべては幻の中の出来事だったのか。 ペテロはやはり世に帰って行くしかなかった。 私は遠い昔、「世に帰ろう。」と決心したことが幾度かあった。 教会とか信仰に挫折し、あきらめと虚しい時間に疲れていた。 ペテロの心がよく理解できた。 聖書の言葉もそらぞらしく虚しく思えた。 間違いなく、こんな筈ではなかったのに。 「そう、だから帰ろう」と思い立ったが、実際は帰る場所は無かった。 私が言いたいのは帰るスペースではなく、生きる意味と安らぐ心の場所が、私が生きて来た筈の世には、もう無かったということである。 進むも虚しく、退くも虚しい。 幾つ月も幾日も過ぎて行った様に思う。 そして主は私に語り給うた。 ヘブル11:24~25節 『信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。』 何回も読み直したとき、主は私の心にふれ、手をとってくれた。 「さあ、信仰へ帰ろう。教会へ帰ろう。あなたの家族はあそこにいるのだから。」 あの時以降、「私は漁に行こう。」と思ったことはない。 仮に辛いことがあったとしても、神の民と生きよう、と思った。 それから7年後、私は神学校へ行き始めた。 生きる術はイエスと生きる以外に無い。 救われ、バプテスマを受け、教会で喜びの礼拝を重ねることがあっても、世に帰って行った人は少なく無い。 本当に残念である。 でも、いつの日か、どこかで気づいて欲しい。 人は身体を中心に生きるだけの生きものではない。 魂だけでなく、霊性によって生きることこそ、意味のある人生なのだ。 マイ・ウェイの人生も悪くはない。 しかしHis way こそ生きることの意味がある。 『人はパンだけで生きるのでなく、神の口からでる一つ一つの言葉による。』 マタイ4章4節

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