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■ 愛する=従う / ヨハネ21:9~23

April 19, 2015

牧師をしている私にとって最も難しいテーマがある。
イエスさまのご要望の中で、最高峰ではないかとさえ思う。
因みにキリスト教とは実にシンプルであり、実に安易と思えるものであり、時にまったく難しいハードルが置いてあるように思う。

主はいわれた。
『誰でも、わたしを愛する者は、わたしのことばを守ります。わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません。』(ヨハネ14章)

殆どのクリスチャンが、この言葉だけは見ずにページを飛ばしてしまいたい、と感じているのではないだろうか。
イエスにとって、愛=従う、である。
To LOVE=OBAY
当然と思う。エイメンである。真実である。
だが、引っかかる。
主を愛していても、従っていない現実が見えて仕方が無い。
すると、私は主を愛していないことになる。
そして、間違いなく主は正しいのである。

果たしてイエスは私達に何を求めておられるのだろう。
もしかして、あなたはわたしを愛しているか、従っているか、を超えた次元ではないだろうか、と不謹慎にも考えてみた。
それは「生きることの中心」は何か?かも知れない。
あなたは自分中心なのか?
または神中心なのか?
仮に自分中心と神中心の二つは、自分の中で相反する事実である。
それを、あたかも何事も無いかの如く平々凡々と生きる私は何とも、お目出度いものだろうか。
実際、私の内側を諮れば自分中心は間違いなく確立しており、神中心は幻影のようでもある。

復活のイエスがガリラヤ湖の淵で炭火をおこし、魚を焼いて弟子達に食べさせた場面がある。
弟子達はイエスに対して、まったく言葉がなかった。
自分達の情けない行動と不始末に、このうえなく極まりの悪い時間だった。
会話無く、空気は淀んで時だけが過ぎて行った。
イエスから声を掛けられた。
「ヨハネの子、シモン。あなたはどんなことがあっても、わたしを愛するか?」
シモン・ペテロはこの様な言葉をイエスから三度言われた。

シモンは辛かった、苦しかった。
いっそのこと、湖に飛び込んで死んだ方が楽だったろう。
でも、そんな度胸は既に無い。
心は蛻の殻だ。
目のやり場がなく、視線が虚ろに空中をさ迷った。
「たとい誰が何を言おうと、私は誰よりも貴方を愛し、貴方に従い、貴方を否定せず、貴方と一緒に死ぬ覚悟です!」
この言葉は余りにもあっけなく、暗がりの焚き火の中にくべられた。
ペテロはその場から逃げて出て、ひとり暗闇で号泣した。
イエスの眼差しが、ペテロの背中を追った。

昔、私はイエスの眼差しの意味を幾度も幾日も考えた。
で、行き着くところ、主の眼差しは憐れみと慈愛に満ちた眼差しだったと結論に至った。
人は人でしかない。
弱く、情けないほど確実性に乏しい。
だのに、限界と傲慢が内側で激しく交差している。
人の姿をもたれたイエスは、そんな人間の不透明と不確実性のすべてを知って下さった。
ああ、私の主はなんという方であろうか。
それ以上に言葉がなかった。

「わたしを愛する者は、わたしのことばに従う者です。」
もしかして、このみことばは私達が『自分で自分の内を吟味する』ように、とのイエスの愛に富み給うものだったのか。。。。
 

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