■ 愛する=従う / ヨハネ21:9~23

牧師をしている私にとって最も難しいテーマがある。 イエスさまのご要望の中で、最高峰ではないかとさえ思う。 因みにキリスト教とは実にシンプルであり、実に安易と思えるものであり、時にまったく難しいハードルが置いてあるように思う。 主はいわれた。 『誰でも、わたしを愛する者は、わたしのことばを守ります。わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません。』(ヨハネ14章) 殆どのクリスチャンが、この言葉だけは見ずにページを飛ばしてしまいたい、と感じているのではないだろうか。 イエスにとって、愛=従う、である。 To LOVE=OBAY 当然と思う。エイメンである。真実である。 だが、引っかかる。 主を愛していても、従っていない現実が見えて仕方が無い。 すると、私は主を愛していないことになる。 そして、間違いなく主は正しいのである。 果たしてイエスは私達に何を求めておられるのだろう。 もしかして、あなたはわたしを愛しているか、従っているか、を超えた次元ではないだろうか、と不謹慎にも考えてみた。 それは「生きることの中心」は何か?かも知れない。 あなたは自分中心なのか? または神中心なのか? 仮に自分中心と神中心の二つは、自分の中で相反する事実である。 それを、あたかも何事も無いかの如く平々凡々と生きる私は何とも、お目出度いものだろうか。 実際、私の内側を諮れば自分中心は間違いなく確立しており、神中心は幻影のようでもある。 復活のイエスがガリラヤ湖の淵で炭火をおこし、魚を焼いて弟子達に食べさせた場面がある。 弟子達はイエスに対して、まったく言葉がなかった。 自分達の情けない行動と不始末に、このうえなく極まりの悪い時間だった。 会話無く、空気は淀んで時だけが過ぎて行った。 イエスから声を掛けられた。 「ヨハネの子、シモン。あなたはどんなことがあっても、わたしを愛するか?」 シモン・ペテロはこの様な言葉をイエスから三度言われた。 シモンは辛かった、苦しかった。 いっそのこと、湖に飛び込んで死んだ方が楽だったろう。 でも、そんな度胸は既に無い。 心は蛻の殻だ。 目のやり場がなく、視線が虚ろに空中をさ迷った。 「たとい誰が何を言おうと、私は誰よりも貴方を愛し、貴方に従い、貴方を否定せず、貴方と一緒に死ぬ覚悟です!」 この言葉は余りにもあっけなく、暗がりの焚き火の中にくべられた。 ペテロはその場から逃げて出て、ひとり暗闇で号泣した。 イエスの眼差しが、ペテロの背中を追った。 昔、私はイエスの眼差しの意味を幾度も幾日も考えた。 で、行き着くところ、主の眼差しは憐れみと慈愛に満ちた眼差しだったと結論に至った。 人は人でしかない。 弱く、情けないほど確実性に乏しい。 だのに、限界と傲慢が内側で激しく交差している。 人の姿をもたれたイエスは、そんな人間の不透明と不確実性のすべてを知って下さった。 ああ、私の主はなんという方であろうか。 それ以上に言葉がなかった。 「わたしを愛する者は、わたしのことばに従う者です。」 もしかして、このみことばは私達が『自分で自分の内を吟味する』ように、とのイエスの愛に富み給うものだったのか。。。。

最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2016 by Choufu Minami Crist Church . Proudly created with Wix.com

  • Facebook Social Icon