■ 期待されて30年 / 第一コリント3:1~11

当教会はこの春、創業というか開業といおうか、30周年を向かえることが出来た。 業は業でも天の父に期待されて始まった大事業である。 これはトヨタ自動車よりもソフトバンクよりも偉大で尊い事業である。 第一、 金儲けではない。人の魂を救う御奉仕である。 「金が神」のこの世にあって、ある意味割りに合わないと言えば合わないかも知れない。 しかし、割りに合うと思えるなら、これを除いて割りに合う事業など、この世に無い。 何せ、永遠の主と神の国に仕える事業である。 この教会において私は三代目牧師である。 私の中で思うこと、そもそもイエスさまは間違った人材登用をされたのか。 登用された本人はそう感じている。 場違いな人間が牧師となった。 つまり神さまだって間違いをする。 だから創世記で神さまは後悔されている。 創世記6:5~7 『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 但しである、創造主はロボットでなく、生きた人間を造られた。 材料(素材)は、土地のちりである。 これが失敗の要因だったか? そうではない。 造り主の失敗ではなかった。 人間の側の失敗である。 創造主からすると、人間とは可愛くて愛おしくて、我が身を削ってまでして世話しても辛くない存在対象だった。 場違いな人間を選ばれる主は果てしなく凄い方だ。 ご自身の教会を、場違いな牧師に任せる主は凄いと思い続けた。 で、今更ながらその牧師は思っている。 「主よ、あなたは間違っていなかった。」 21年間も間違っていると信じた牧師だが、主の確かな御目を今は疑わない。 主はどんな人間でも変えられるのだ。 私達はそういう天の父の下、礼拝をしている。 聖書の文字を表面的に拾い読みして理解出来る主の御愛ではない。 実際、自分の愛する息子や娘を失う親の体験をしなければ、神の愛は分からない。 天の父が世人(よびと)の罪のために、たった一人の愛する息子を死なせた。 ユダヤ人が殺したのではない。 人類の罪が聖なるイエスを殺したのである。 30年前、少数の有志が集まって礼拝は始まった。 以後、苦節30年と世はいうが、教会はそう言わないし思わない。 正直のところ、キリストからの恵みと祝福の30年だった。 涙はうれし涙、叫びは主を呼び求める祈りの声、汗は尊い労働の賜物。 生きてよみがえられたキリストのゆえに、すべてはポジティブに変えられる。 本当はいつもイエスが共におられ、いつもイエスに祈られたのだ。 こちらが祈ったのではなく、主イエスに執り成され、祈られたのだ。 ルカ22:32『わたしはあなたの信仰がなくならない様に祈った。だからあなたが立ち直ったら兄弟達を力づけなさい。』 事のはじめを忘れてはいけない。 クリスチャンはそれを覚えよう。 私が、教会が、ではない。 初めに神が天と地を造られた・・・・のである。 「わたしがこの岩の上に、わたしの教会を建てる。」とイエスは言われた。マタイ16:18 そして30年、一言で言えないほど長い時間である。 オギャアと生まれた人間が、やがて30歳になるほどの時間の長さである。 よくぞ守られた30年であり、よくぞ守られた21年の牧師生活である。 明日のことなどあまり考えないが良い。 明日生きているかどうかも分からぬ人間である。 経ってみたら30年。 主よ、本当にありがとうございました。

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