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■ 30年に何思う / ローマ12:1~18

今日は教会開始30周年記念の日である。 よくぞ!よくぞ、イエスさまは我らを見捨てられず、あきらめず、忍耐と寛容をもって、この小さな神の家族を守って下さった。 仮にこの世の物差しで計るなら、無責任、無重力、経験と技術不足、過剰債務に陥り、もはや営業停止から倒産に至っていても不思議のない歩みであった。 教会の不思議は何か? それはキリストが共におられること、に尽きる。他に理由はない。 教会の営みはすべて主キリストの守りと支えという恵みの下にある。 外部から大勢のお客様と一緒にお祝い出来て、本当に嬉しい日となった。 改めて主に感謝の思いを捧げさせていただいた。 本当に見えない方を見上げるところで生きて来られた30年である。 人間で30歳というと、社会的にも個人的にも立派な成人である。 でも教会は違う。 教会は大人びている様でも、案外幼稚な部分が少なくない。 考えると教会はいつまで経っても「発展途上」に思える。 但し、決して成長しきれないで悩んでばかりいるのでもない。 成長しきった教会より発展途上が良い、とさえ思う。 決して僻んでいるでもなく、自己卑下でもない。 正直にそう思える。 足りないところが沢山あるが、だからといって凹んでもいない。 いつも主キリストを仰いで行きたいと願っているし、諦めも無い。 若しかして、こんな今が一番楽しいステージなのだろうかとさえ思う。 フレッシュに主を礼拝し、少なからず失敗し、多いに反省しつつ、でも挫けない。 これらはすべてキリストからの贈り物であった。 聖書に登場する「マケドニヤの教会」はキラキラと輝いて見える信仰一筋の星の様な存在である。 厳しい環境下で生まれ育てられ、経済的にも極度に貧しく、宣教も伝道も大変であったろう。 しかしパウロの言葉から、励まされるのは余りにも豊かな私達である。 『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第二コリント8章1~5節) 文字通り「逆境の恩寵(恵み)」に生きたのが、ピリピの教会、テサロニケの教会だった。 果たして、恵みや祝福が多過ぎると、キリストが下さる恩寵(めぐみ)が見えないのかも知れない。 恩寵とは、苦しみや試練、貧しさと悩みの中だけで認められるものなのだろうか。 足りないものが多いと、たまに訪れる喜びが何倍にも増して有り難く思えるのだろうか。 発展途上は多くの欠点がある分、悩みも多い。 そして主キリストの恵みなくして存続出来ない自らを自ずと悟らされる。 以前は抵抗があって使いたくない言葉であったが、最近そうは思わない。 何となく嬉しいし、くすぐったくもない。 これが発展途上と思えば、良い意味で開き直れるし、気持ちが楽になる。 表面を繕う必要もないし、格好つける意味も感じないし、正直でいられるのが更に良い。 イエスさま、今日まで本当にありがとうございました。 すべて貴方のとりなしのおかげです。 こんなに雑で懲りない私どもですが、どうか諦めないで下さい。 30年を感謝しつつ、更に10年、20年、どうかお守りください。 イスラエルは40年掛けて、あの河を渡りました。 私達もきっといつの日か、ヨルダン河を渡って必ず「約束の天つ御国」に立てますように。アーメン。 今日は教会開始30周年記念の日である。 よくぞ!よくぞ、イエスさまは我らを見捨てられず、あきらめず、忍耐と寛容をもって、この小さな神の家族を守って下さった。 仮にこの世の物差しで計るなら、無責任、無重力、経験と技術不足、過剰債務に陥り、もはや営業停止から倒産に至っていても不思議のない歩みであった。 教会の不思議は何か? それはキリストが共におられること、に尽きる。他に理由はない。 教会の営みはすべて主キリストの守りと支えという恵みの下にある。 外部から大勢のお客様と一緒にお祝い出来て、本当に嬉しい日となった。 改めて主に感謝の思いを捧げさせていただいた。 本当に見えない方を見上げるところで生きて来られた30年である。 人間で30歳というと、社会的にも個人的にも立派な成人である。 でも教会は違う。 教会は大人びている様でも、案外幼稚な部分が少なくない。 考えると教会はいつまで経っても「発展途上」に思える。 但し、決して成長しきれないで悩んでばかりいるのでもない。 成長しきった教会より発展途上が良い、とさえ思う。 決して僻んでいるでもなく、自己卑下でもない。 正直にそう思える。 足りないところが沢山あるが、だからといって凹んでもいない。 いつも主キリストを仰いで行きたいと願っているし、諦めも無い。 若しかして、こんな今が一番楽しいステージなのだろうかとさえ思う。 フレッシュに主を礼拝し、少なからず失敗し、多いに反省しつつ、でも挫けない。 これらはすべてキリストからの贈り物であった。 聖書に登場する「マケドニヤの教会」はキラキラと輝いて見える信仰一筋の星の様な存在である。 厳しい環境下で生まれ育てられ、経済的にも極度に貧しく、宣教も伝道も大変であったろう。 しかしパウロの言葉から、励まされるのは余りにも豊かな私達である。 『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第二コリント8章1~5節) 文字通り「逆境の恩寵(恵み)」に生きたのが、ピリピの教会、テサロニケの教会だった。 果たして、恵みや祝福が多過ぎると、キリストが下さる恩寵(めぐみ)が見えないのかも知れない。 恩寵とは、苦しみや試練、貧しさと悩みの中だけで認められるものなのだろうか。 足りないものが多いと、たまに訪れる喜びが何倍にも増して有り難く思えるのだろうか。 発展途上は多くの欠点がある分、悩みも多い。 そして主キリストの恵みなくして存続出来ない自らを自ずと悟らされる。 以前は抵抗があって使いたくない言葉であったが、最近そうは思わない。 何となく嬉しいし、くすぐったくもない。 これが発展途上と思えば、良い意味で開き直れるし、気持ちが楽になる。 表面を繕う必要もないし、格好つける意味も感じないし、正直でいられるのが更に良い。 イエスさま、今日まで本当にありがとうございました。 すべて貴方のとりなしのおかげです。 こんなに雑で懲りない私どもですが、どうか諦めないで下さい。 30年を感謝しつつ、更に10年、20年、どうかお守りください。 イスラエルは40年掛けて、あの河を渡りました。 私達もきっといつの日か、ヨルダン河を渡って必ず「約束の天つ御国」に立てますように。アーメン 2015年5月31日。

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