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■ イエスが教会 / マルコ1:21~28

June 7, 2015

あの朝、私は自分から聖書を手にとり、何の気なしに創世記の話、ノアの箱舟のことが目に止まった。
読み出すと中々面白い話である。
「俺はクリスチャンになどならないから」と自らに言い聞かせてたのだが・・
その朝、牧師は新約聖書から何やら話していたが、私は興味など微塵も感じなかった。
ノアの話からアブラムへ、そしてロトへと話が進むと、「ふーん、聖書って面白いものだなぁ」と自然に感じた。
やがてイサク奉献の場面(創世記22章)で、先に進めなくなった。
それが神によるものと解るまで、かなり長い時間が掛かった。

私はアブラハムの信仰に興味をもち、彼の神を我が神としたいと思っただけだった。
だが、それだけでは自分が救われたことにはならない。
当時、私が知ったことはアブラハムのことだけだった。
新約聖書もキリスト教もイエスも知らなかった。
単にアブラハムの神を受け入れただけである。
1978年3月12日。

その3日後、私は「聖霊によって」己が罪を見させられ、十字架のイエスにより、彼の死が私自身のためでもあったと知った。
その3日間の心の旅が発端になり、やがて私の人生にとって葛藤であり、岐路であり、大きな転換をもたらす要因になることなど夢にも思わなかった。

イエスが会堂でユダヤ人に律法に釈義をしている場面がある。
大勢の人がいたが、彼らは一様にイエスの話に驚いた。
それはイエスが学者の様にではなく、まるで神の代理人の様に、権威ある者の様に話されたからであった。
しかしその場にいた一人の男は他とは違った。
彼はイエスに対して、激しく反応した。
「ナザレ人イエス!一体あなたは私に何をしようとするのか!
私は知っているぞ!あなたは我々を滅ぼしに来たのであろう。あなたは神の聖者だ!」
彼は悪霊に憑かれた人だった。

イエスに反応すべき人は、会堂内にいる全ての人であった。
しかし人間の内なる部分において、自覚と自認という経路に聖霊に触れられなければ、人間に変化は起こらない。
閉じられた心に聖霊は働かない。
仮に悪霊であっても、霊は男の中で激しく反発し反応したのである。
「霊のことは霊によってわきまえるものだから」(1コリント2:14)。
彼はイエスが誰だか知っていると叫び、イエスは神の聖者であると言い切った。

教会とはイエスを信じた人の群であり、イエスに呼ばれた人の集まりである。
建物は教会ではない。
建物はチャペルであり、群はチャーチという。
チャーチはイエスに救われ、イエスに呼ばれ、イエスを礼拝する。
これがキリスト教会であり、キリスト教である。
つまりイエスが教会である。
信徒の内にはそれぞれイエスがおられる。

マタイ16章18節
ピリポ・カイザリヤにおいてイエスは言われた。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。」
そう、クリスチャン達はキリストの教会を建てるのだ。
他の誰でもない。
「キリストの教会」を建てるのだ。
それには信徒ひとりひとりが、キリスト教徒にならなければと思う。
敢えて言おう、「キリスト教徒」である。
イエス・キリストに直に仕える聖徒である。
 

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