■ イエスが教会 / マルコ1:21~28

あの朝、私は自分から聖書を手にとり、何の気なしに創世記の話、ノアの箱舟のことが目に止まった。 読み出すと中々面白い話である。 「俺はクリスチャンになどならないから」と自らに言い聞かせてたのだが・・ その朝、牧師は新約聖書から何やら話していたが、私は興味など微塵も感じなかった。 ノアの話からアブラムへ、そしてロトへと話が進むと、「ふーん、聖書って面白いものだなぁ」と自然に感じた。 やがてイサク奉献の場面(創世記22章)で、先に進めなくなった。 それが神によるものと解るまで、かなり長い時間が掛かった。 私はアブラハムの信仰に興味をもち、彼の神を我が神としたいと思っただけだった。 だが、それだけでは自分が救われたことにはならない。 当時、私が知ったことはアブラハムのことだけだった。 新約聖書もキリスト教もイエスも知らなかった。 単にアブラハムの神を受け入れただけである。 1978年3月12日。 その3日後、私は「聖霊によって」己が罪を見させられ、十字架のイエスにより、彼の死が私自身のためでもあったと知った。 その3日間の心の旅が発端になり、やがて私の人生にとって葛藤であり、岐路であり、大きな転換をもたらす要因になることなど夢にも思わなかった。 イエスが会堂でユダヤ人に律法に釈義をしている場面がある。 大勢の人がいたが、彼らは一様にイエスの話に驚いた。 それはイエスが学者の様にではなく、まるで神の代理人の様に、権威ある者の様に話されたからであった。 しかしその場にいた一人の男は他とは違った。 彼はイエスに対して、激しく反応した。 「ナザレ人イエス!一体あなたは私に何をしようとするのか! 私は知っているぞ!あなたは我々を滅ぼしに来たのであろう。あなたは神の聖者だ!」 彼は悪霊に憑かれた人だった。 イエスに反応すべき人は、会堂内にいる全ての人であった。 しかし人間の内なる部分において、自覚と自認という経路に聖霊に触れられなければ、人間に変化は起こらない。 閉じられた心に聖霊は働かない。 仮に悪霊であっても、霊は男の中で激しく反発し反応したのである。 「霊のことは霊によってわきまえるものだから」(1コリント2:14)。 彼はイエスが誰だか知っていると叫び、イエスは神の聖者であると言い切った。 教会とはイエスを信じた人の群であり、イエスに呼ばれた人の集まりである。 建物は教会ではない。 建物はチャペルであり、群はチャーチという。 チャーチはイエスに救われ、イエスに呼ばれ、イエスを礼拝する。 これがキリスト教会であり、キリスト教である。 つまりイエスが教会である。 信徒の内にはそれぞれイエスがおられる。 マタイ16章18節 ピリポ・カイザリヤにおいてイエスは言われた。 「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。」 そう、クリスチャン達はキリストの教会を建てるのだ。 他の誰でもない。 「キリストの教会」を建てるのだ。 それには信徒ひとりひとりが、キリスト教徒にならなければと思う。 敢えて言おう、「キリスト教徒」である。 イエス・キリストに直に仕える聖徒である。

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