■ あなたはエル・ロイ (ご覧になる神) / 創世記21:5~21

アブラハムとサラ、二人は地上で唯一、「神に選ばれた夫婦」であった。 彼らには、以前エジプトに出向いた際に連れて来たハガルという女奴隷がいた。 彼女の人生は辛い宿命の下に置かれた。 しかもそれが「アブラハムとサライという夫婦」によって背負わされた重荷である。 私達人間とは、こうも自己中心、保身的、利己的な生き物であるのだ。 ハガルにはアブラハムが生ませた14歳に約束の息子、イサクという子供が生まれた。 イサクが乳離れしたとき、アブラハムは盛大な宴会を開き、イサクを祝福した。 その喜びの日、イシュマエルがイサクをからかった。 するとサラは大いに怒り、アブラハムに詰め寄った。 「奴隷の子がイサクと一緒に住むことは許せません。今直ぐに、追い出してください。」 何とも冷たい女性であるが、主が選ばれたサラであった。 元はと言えば、イシュマエルを生ませたのもサラの願いであった。 アブラハムは辛かった。 イシュマエルは彼の息子である。 だのに、どうしておめおめと死なすことが出来ようか。 主の言葉はアブラハムの背中を押した。 「イシュマエルもあなたの子であるから、わたしは彼を祝福し、一つの国民とする。」 子供が背負える程の皮袋に水を満たし、ハガルとイシュマエルをベエル・シェバの荒野に見送ったアブラハム。 この場面、男性にとっては実に理解出来る場面であろう。 そして神の約束の下に置かれた人間としての、厳しい選択である。 人の理性や感情面は堪えたにせよ、血涙を飲み込んで二人を荒野に追いやるアブラハム。 おそらく二人は3日と無事にいられることはないだろう・・・ サラとアブラハムの失態と苦い実の始末を負ったのは、アブラハムではなく「主」であった。 果たして私達はどれほどの失敗と過ちを主キリストに負わせたろうか。 間違いなく人類が存在する限り、主は彼らの罪の後始末をされ続けるのである。 ハガルの水が尽きたとき、彼女は矢の届く距離までイシュマエルを遠ざけた。 息子の死を見届けることだけは出来ない。 中東の荒野の厳しさは半端ではない。 石ころと渇いた植物、そして猛獣と盗賊。 あらゆる危険が満ちている。 イシュマエルは声をあげて泣いたが、母の耳には届かない。 そしてハガルも声をあげて泣いた。 遂に命の糸は切れようとしていた。 そのとき、であった。 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。 「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。 (創世記21章17~21節) 読者は気をつけて、聖書の言葉を読んで欲しい。 「神は少年の声を聞かれ・・・」「神がハガルの目を開かれ・・」「神が少年と共におられ・・」 すべて主語になっている方は「神」である。 神の慈愛の下に置かれた人生であっても、試練は尽きないだろう。 苦悶と涙は終ることが無いかも知れない。 だが、キリストはあなたと一緒である。 キリストを信じ、バプテスマを受けたなら、いかなる場合も「神が主語の人生」である。 信仰とは神さまからの預かり物、授かり物、賜物である。 やがて私が天の御国に入ったとき、神にお返しする。 神を仰がせ、キリストと共なる人生を導き、あらゆる岐路において神への道を選ばせるのは、確かにあなたの信仰である。 ただし、あなたの信仰そのものを信じてはならない。 信仰は使うためにある。 使えば増えるのが信仰だ。 守る必要など無い。 守ろうとするから無くなるのだ。 信じるべきはキリストのみ。 それがキリスト者の人生である。

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