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■ 転回 / 黙示録 1章17~2章7節

人間は二種類の耳を持つ。 一つは生まれ持っている耳。 もう一つはキリストから戴いた、霊的な声が聞こえる耳。 当然であるが、クリスチャンだけが与えられた耳とは言い切れない。 クリスチャンでも与えられていない人がいることは、決しておかしなことではない。 そしてこの耳はいつだって、必ず機能する耳ではない。 それが素晴らしいと思うし、悔しいときもある。

黙示録という記録の書は、ヨハネという人がパトモス島に流刑された際に書かれた。 彼は神から見せられ、語られた、夢のようで夢だけではない。 幻のようで幻だけでもない。 不思議な体験をしたが、そのとき見た世界を書き記した。 聖書の中で唯一、今はまだ実現していない未来を前もって見たと言われる。 その表現は実に摩訶不思議である。 しかし、不思議だけで済まされないものがあるのが、聖書である。

黙示録2章。 七つの教会の冒頭に挙げられたのがエペソの教会。 エペソという町は港町であり、海と陸の通商路に恵まれ、色々な国の人々が集まり行き交った町である。 人も金も行き交えば当然であるが、快楽と道楽が賑わいに徒花(あだばな)を咲かせたのであろう。 しかし、キリストの福音と御力はそういう町にさえも教会を建て上げた。

エペソの教会はパウロの同労者達の祈りと働きで開拓された。 そして、その教会はキリストの熱い愛によって成長し、発展した。 彼らは行いにおいて、労苦において、忍耐強く、偽使徒を見分ける力があった。 これらは大いに評価の対象となった。 仮に私であれば、鼻高々になったであろう。 しかし、よくよく考えてみるならば、それらはすべて自力、努力、熱心で築き上げられるものでもあった。 キリストは彼らに対し、こういわれた。 「あなた方には非難すべきことがある。あなた方は初めの愛から離れてしまった。。。」

教会とキリストの愛のつながりは、私達の努力や忍耐によって果たせないわざなのだろうか。 主はそこを指摘された。 確かに教会の努力と労苦は大いに評価されるべきものである。

しかし、ことは人間の側の努力で埋められないものもあるのだ。 教会が建てられた意味は、神の愛と力、神の選びと働きの委託、つまり神が主導であって人間主導ではない。 あくまでキリスト主体であり、キリスト中心であり、キリストが「かしら」である。 だから「キリスト教会」なのである。

私達はエペソの教会がもつ弱点と欠点を、我が身の弱さと認めて今からの取り組みとすべきであろう。 初めの愛とは、過去のどうしようも無い罪が完全に洗い清められたのを知った、あの歓喜と涙である。 キリストの十字架とよみがえりはこの世の宝に比べても、はるかに優って見えたものだ。 それが今は・・・・

一体、あの愛はどこに行ってしまったのだろう。

キリストは言われる。 「あなたはどこから落ちたかを悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録3:5)

なんと有難いお言葉ではないか。 これ以上の導きがあろうか。 初心に帰るだけでなく、落ちた場所から悔い改めよ、と主は言われた。 そう、どこから落ちたかを思い出して、そこからやり直せるのである。 教会にとって、キリスト者にとって、一番嬉しいことは「やり直せる」ことだ。 この世で生きる中で一番厳しいことは、「やり直せない」ことである。 だが、キリストにあっては「やり直せる」のだ。

更に聖書はこう言う。 「勝利を得る者に、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」 兄弟姉妹、アダムとエバ以来、閉ざされたいのちの木の実は、今再びキリストにおいて悔い改め、救われた時の初心に返ってやり直せば、それが勝利なのである。 時間と経験の中で、硬く踏み固められた様な心は、キリストの十字架によって掘り返される必要がある。

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