■ 道、真理、いのち / ヨハネ14章6節 (2015-08-09)

ヨハネ14章6節、クリスチャンになった頃から、この言葉はいつも身近に有った。 居間の壁掛けに刻まれていたから、目を上げればいつもそこにあった。 「わたしが道であり、真理であり、いのちである。誰でもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることは出来ません。」

そうか、ただ神を信じました、だけじゃ意味ないんだ、と思った。 イエスを通して、つまりイエスを信頼したその向こうに神の国が待つ、と解せる。 日本のクリスチャン達は誰もが口々に言う。 「かみさま」「かみさま」「かみさま」と。 それが一般の日本の人達には十分通じている。 「なんだ、私達だって神社に行くし、道端に置いてあれば拝むし、みんな同じ神様だよね。

違う、のである。 その違いを敢えて口にしないとならないのか。 面倒だから、初めからこう言おう。「私の神はイエス・キリストです。」

イエスは神の国への登竜門なのか? NO,である。 彼自身が神の国に至る道である、と言っておられる。 「イエスのお名前によってお祈りします、アーメン」とは、祈りが終る合図と思う人も多い。昔は私もそうだった。 NO,である。 イエスの名によって祈る祈りは神の前に届けられ、天の父が聞いてくださる。 文字通りイエスは「人と神の仲介者」である。 裏返せば、それ程に人間は罪が深い、ということである。

真理、人間の大好きな言葉である。 真理と言えば、本当、まことの道理、最上唯一であって、偽は無い。 しかし、真理、真理と騒ぐ程いい加減であり、「もどき」であり、騙しであり、似非(えせ)、ひと騒がせなものはなかった。 世の宗教界やニセ宗教は口角泡を飛ばしてがなり立てて来た。 そしてイエスは、憚りなくいわれた、「わたしが真理である」と。 私達はどう判断すべきか? 誰かに相談して考えようか? 否、自分で判断すべき問題である。 真理を持たない、知らない人間に相談出来るほど、真理は甘くない。

イエスを知れば分かる。 そもそも真理が何なのかも分かる。 自分から真理だと言いきるイエスであるなら、彼自身を知る必要がある。 泥まみれになっても知る価値は十分ある。 泥まみれになるくらい、イエスと取っ組みあったらいい、とさえ思う。 きれいごとを並べる程度でイエスを知ることなど出来ない。 イエスご自身、裏切られ、埃と汗と涙、血みどろになって、死に至るまでして、真理とは何かを世に示された方なのだ。

「わたしがいのちなのです。」 このいのちは神が下さる永遠のいのちである。 私がイエスを心に迎えた瞬間、神が下さった約束の命である。 イエスを迎えたとき、つまり彼自身が永遠なのである。 「これを、あなたに上げよう」と言われて貰った命ではない。 イエスご自身が、いのちそのものなのだ。

ヨハネ11:25節 『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』

もし、この事実と約束を「本当に理解した、受け取った、確信した!」のであるなら、信仰から離れるクリスチャンなど皆無であるとさえ思う。 そして信仰とは、自分だけでやっているものではないことを知らぬ人が多い。 「すみませんねぇ、私の信仰は貧しいもので・・・」よく聞いた言葉。 信仰は神からの賜物、つまりいただきものであり、たまわりものである。 私達人間が頑張って得た物でも、獲得した物でもない。 突き詰めて言えば、天国に入る際、神さまにお返しする、それまでの預かり物であると思う。 だからキリストに選ばれ、信仰をいただいた。(ヨハネ15:16) そしてキリストの実を結ぶようにと期待された。 この日本で言えば、全国民1パーセント以下の数字の中に数えられる。 なぜ私なのか、あなたなのか、誰も知らない。 選ばれたのはキリストである。

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