■ 決して背中を見せなかった男 / 第一列王記18:37~46
エリヤという名は旧新約を問わず、非常に尊ばれた人の名である。 彼は預言者であり、救い主(メシヤ)であり、世直しびとの代名詞であり、神の使者に例えられる名である。 イエスご自身もエリヤの再来か、と言われた。
仮に聖書が言う人物に似ていると言われるとして、エリヤの様な人と言われたら間違いなく最高の評価である。 私にせよ、そう呼ばれたことは一度も無いし、そう呼ばれた人も知らない。 だが、別の人物名で呼ばれたことはあった。 一度は「アハブ」の様だと言われたことがある。 アハブとはエリヤの宿敵であり、悪の枢軸の如く、神の前に大きな罪を犯した人である。 そう呼ばれて私の感情はどう動いたか。 おかしなもので、あの日から私はアハブが好きになった。
アハブは北王国イスラエルの王でありながら、宗教モラルはゼロ。 短絡的で理性も低く、自分の興味あること以外は完璧に無頓着。 すごく人間的である。 そのためか偶像礼拝甚だしいシドンの国から皇女を娶っている。
アハブはある日、自分の思い通りにならない現実に腹を立て、食事もせずにベッドにひっくり返って拗ねていた。 まるで幼い子供のように。 そのアハブの姿勢と描写が、ときに私に向かってふられた。 「兄弟、あなたはまるでアハブのようだ。」 だが冷静に考えてみても、アハブと呼ばれことに腹は立たなかった。 「いいじゃん!俺は好きだよ、アハブが」程度のものだった。 なんでも前向き、ポジティブ、柔軟にと、かなりおめでたい捉え方をしてきた。
エリヤは実に好感が持てるし、殆どのクリスチャンにとって憧れの的である。 熱く激しく生きた主のしもべだ。 主のみことばと命令に、己の命と人生を賭けた人。 出来れば、「エリヤの様だね」とでも呼ばれたいが、やっぱりエリヤは別格の存在だった。
エリヤという名は「主こそ神」と言う意味である。 イスラエル民族は、神の選民である。 神がご自身の栄光を現すべく選ばれた民である。 この地上で唯一、選びの民とされた。 しかし選民は神から試練を与えられ、辛酸を舐める宿命もあった。 主と主のことばに背き、世の思考、思想と流れに身を任せたイスラエルに、神は愛という名の苦しみを与え、神への帰属を願われたのである。
クリスチャンにも試練は訪れる。 主は特別扱いをされない方である。 試練という意味は、テストであり、矯正であり、練り直しであり、特別な愛とも言える。 この愛の意味が本当の愛だと知るために神の深い摂理を学ばされる。 主は人が見るように見ず、人が考えるように考えない。 そこに神の摂理に触れる鍵がある。
エリヤはカルメル山において、偶像礼拝を推し進めるイゼベルとアハブ傘下の預言者450名を殺戮した。 何とも残酷で凄まじいが、少数の人生が惑わされる偶像礼拝の域を超え、選民が惑わされ 国と民全体が滅び行くのを止めるための完全粛清であったのだろう。
エリヤは神に背を向けなかった人であり、アハブに対しても背を見せない人だった。 主のご命令と導きならば、やせた細った川の水を飲み、カラスの運んでくるパンと肉を食し、異教の国に住む貧しい母と子の家で養われる境遇さえ甘んじて受けた。 北王国イスラエルが神に帰るためなら、ヤハウェ(主)の栄光のためなら、そのこと以外自分の思い一切を捨てて主のことばに従った人。
エリヤは実に凄すぎる存在なのである、と21世紀のアハブは今日も感じ入っている。 アハブはエリヤを殺さず、エリヤはアハブの命を狙わなかった。 あの厳しい時代において何とも不思議な関係である。 容赦ない日照りと埃の中で、人間の憎悪と神への信仰、血と慈しみ、どれもが合致しにくい様な景色の中で不思議と漂うユーモアと人間の葛藤、列王記は大好きな書物である。