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■ 堕ちた偶像礼拝 / 第一列王記21:17~29

November 1, 2015

聖書の読み方は様々ある。
 人間はものの考え方を学べる。
 思想の裾野を広げられる。
 時代と民族の境を超え、はるかに広い空間で人と神を考える。
だが真の意味で、生ける神を知らない民にとっての神観には限界がある。
 

 私の中で聖書は聴くものだと思う。
 確かに読むのであるが、神のことばとしては聴くというのが相応しい。
つまり静聴だ。
 読まないより読むがいい。
 読むよりは聴くがいい。
 聞くだけより従うがいい。
 

 

イエスはいつもいわれた。
 「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 旧約時代、イスラエルの預言者は叫んだものだ。
 「シェマー(聞け)、イスラエル!我らの神、主は唯一の主である。知恵を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ!」
 民族の出所が違うのだろうか。
 彼らは「初めに神ありき」の民だった。
 

私は1986年7月31日、ゼカリヤ書3章7節を聞いた。
 毎日、旧約と新約の聖書を一章ずつ、順を追って読んでいた。
 日々の糧として読んではいたが、語られることばは主からの直接的ものと信じた。
ゼカリヤ3章、場面は摩訶不思議、まるで幻の中に置かれたような場面だ。
そういうバックグランドを念頭に置いたら、「与えられた、みことば」などと、とても考えられなかったであろう。
しかし私において聞いた言葉は、自分を人生の岐路に押し出す文字通り「主のことば」であった。
 

エリヤの登場は余りにも唐突である。
しかし、エリヤの話をずっと読んで行くと、唐突という印象は相応しくないと気づいた。
 彼は神のことばを聞き、そして確実に行動に移す人だった。
どんな状況においてさえ、いかなる命令にも従った。
エリヤは血筋や経歴、学歴、で選ばれた人ではない。
あくまでも「ギルアデの出、ティシュベ人エリヤ」と紹介された。
ただ一つ、彼が神から選ばれた特質は、神のことばを聞いて実行に移す力と勇気を持っていたことである。
それは神(ヤハウェ)に対する強い信仰だった。
 

当時、イスラエルにおける希なる存在とは、神に楯突くアハブ王であった。
そのアハブ家に神から与えられる裁きの預言をエリヤは伝えた。
 「アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」
 主からの厳しい宣告を語られたまま、真っ直ぐに伝えるのが預言者である。
それは聖書の言葉とて同様である。
なのに、「聖書のことばに自分の好みをちょっと味付けして、世の常識をまぶし、相手の好みのスパイスし、きつい感じはオブラートし、それをラップして三分間のチン!」
 果たしてそれでも「生ける神のことば」なのだろうか。。。。。
 

エリヤの言葉を耳にしたアハブはさすがに落ち込んだ。
21章27節にこう書いてある。「彼は自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食して伏し、打ちしおれて歩いた。」
アハブは自分がとった悪行を認め、神の前に非を悟り、悔いた気持ちを全身で現したのである。
 仮に日本人ならどうするだろう。
まことの生ける神を認めない民は、果たして悔い改めに対する行動を表現出来ないかも知れない。
もし、したにせよ不器用である。
 照れなのか、シャイなのか・・・
生ける神を否定し、偶像礼拝に走ったアハブであるが、エリヤを通して聞いた主の断罪預言は彼の肝に激しく響き渡った。
 

列王記21章29節
 「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
 

ああ、憐れみ深いは、ただ主なる神である。

 

 

 

 

 

 

 

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