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■ イエスの父ヨセフ / マタイ1:16~25 (2015-12-13)

イエスの戸籍上の父はナザレの大工、ヨセフと言う。 ヨセフに関する聖書の記事は非常に少ない。 居たか居なかったのか分からない程である。 しかし、彼の存在は不可欠であった。

創造主はヨセフの血筋にこだわっておられる。 それはアブラハムの子孫、ダビデの子孫でなければならなかった。 気が遠くなるほど遠い昔、ヤハウェなる神が約束されたからである。

ヨセフに求められたことは、処女の許嫁があり、彼女に触れることなく同居する以前であって、ヨセフ自身が神と人に対して忠実であり、守秘義務を守れること等々だった。

だからこそ、許嫁マリヤの懐妊を知ったヨセフは本当に悩んだと思う。 正しい人であればあるだけ、その苦しみは深かった筈である。 ヨセフは悩んだあげく、秘密裏にマリヤを離縁する(離縁状を渡し)ことにした。 確かに一旦はそう決心したが、それでもヨセフが悩んだことを「彼がこのことを思い巡していると・・」と、聖書は書いている。 ヨセフの揺れる心が伝わって来るようだ。

ときに主の使いは夢に現れてヨセフに言った。 「ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻、マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 果たして、どこの誰が夢で聞いた言葉を真実として受け入れられるだろう? 現実世界から、夢ごときをどうしてまともに受け止められるだろう? だが、仮に世界中で誰一人受け入れられずとも、ヨセフが信じるなら、それで万事良しであった。 私たちが、彼の問題を共有出来ないとしても何等、神にとって困ることは無かった。 それは神が彼と彼女を選ばれ、その二人が偉大なる神の前代未聞の計画実現に際し、二人だからこそ成し遂げられた、超アメイジングなときだった。

通常、心底悩むとは安易な選択不可能な状況に置かれたときであろう。 クリスチャンにおいて悩むといえば、神にゆだねるか、もしくは我が意なのかという岐路に立たされたときであろう。 で、あるならば、どうして神に対してもっと「事の真意」を問わないのだろう? ことの真偽ではない、神の真意である。 祈って悩んでまた祈って、そして聖書に求めれば自ずと答えは来ると信じる。 もしかして「初めに我ありき」でいればこそ、悩むのではないだろうか?

ヨセフは彼が握っていた舵を神に託した。 『ヨセフは眠りから覚め、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして子供が生まれるまで、彼女を知ることがなく、その子供の名をイエスとつけた。』

天の父がご自身の計画を達成する(神の栄光を現す)ために必要なものが常にあった。 一つ目、神は人を必要とされた。 いかなる場合も、いかなる状況でも、神は人を通して働かれ、ご自身の栄光を現された。

二つ目、その人々は小さな存在であった。 名もなき小さな者、それで十分だった。 仮に無学でも、権力や金銀や地位が無くても、である。 アブラハム、ヤコブ、モーセ、いずれも神が選ばれ、神主導で生きたからこそ、彼らは大仕事を成し遂げられた。 神主体の人生に乗り換えるときである。

三つ目、主に聞き従う心であれば、それでよかった。 ペテロなどガリラヤ湖で働く漁師達でさえ、イエスは彼らを人を漁る(すなどる)者とされた。 オネシモという逃亡奴隷は監獄の中でパウロを通して新生した。 マルコは伝道旅行から脱落し、仲間に不協和音をもたらす要因であったが、数年後パウロにとって必要不可欠な人材となった。

今までが、どうのこうのではない。 過去は帰らないし戻せない。 問題は今からである。 真の悔い改めなら何回したっていいではないか。 我らが神は、生ける神である。 故にこそ、『今、私がこの世に生きているのは、私を愛し、私の為にご自身をお捨てになった神を信じる信仰による。』と、言わしめ給う神である。 そんじょそこらの神々とはわけが違う。

ヨセフとマリヤから学ぶことが三つある。 1、信仰とは、自分と人生に神の介入を認めること。 2、次に、あなた自身が主を求め続ける器になること。 3、遂にはキリストと生きる人生を推し進めることである。

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