■ イエスが呼ばれた / ルカ10:1~11

ルカ10章「その後、主は別に70人を定め・・・」 マルコ3章「さてイエスは山に登り、ご自身のお望みになる者達を呼び寄せられたので・・・」

イエスは常に、ご自身が望まれる者達を呼ばれた。 クリスチャンになったけど、急に進むべき道、歩くべき道が分からなくなる時がある。 クリスチャンとしてそこそこになるけれど、主から何を望まれているのか分からない人だって少なくない。 それらは誰にでもあることだ。 必ずと言ってよいほどに。 初めから進むべき道をまっすぐに歩く人など殆どいない。 誰だって当初は迷い、道を外れてしまったり、脇道へそれたりする。 迷いっぱなしの人だっている。 つまり、迷うべくして迷うのであるが。。。 それでさえ別におかしなことではない。 そうやって人は歩み、求めるべき信仰の道を求めて行く。 これぞ求道者である。 やみくもに求め続けるのが求道者ではない。 しかし、神と神のことばに留まり続けるなら、いつか必ずイエスから呼ばれる日は来る。

そして覚えよう。 イエスがあなたを呼ばれたということを。 これが一番大切である。 なぜ呼ばれたのか? そう問われても私などにはわからないし誰だってわからない。 分からなくてもよい、と先ずは思うべし、だ。 確かなことは「主がお望みになられた」ということだ。 それだけ分かっていれば、全く問題ない。

確かに人は知りたい。 何の意味があって、どんな目的があって自分が呼ばれたのか? だが、イエスにはイエスのお考えがある。 あの人、この人、みんな違うことだってある。

あなたと主が一緒に歩く道すがら、イエスとの個人的な交わりの中で、イエスがあなたに対して持っている目的もビジョンも示される時は来る。 心配は要らない。 ただ、「私はイエスから直に呼ばれた」とう確信だけあれば良い。 イエスと並んで歩く日、イエスの踵を見ながら歩く日、イエスの後姿を追いながら歩く日、そういった長い膨大な時間が人間には必要である。 時間が掛かったら掛かった分だけ、将来において後悔する時間は少なくなるであろう。 つまり迷った時間だけ、主との葛藤と交わりの時が多かったのである。 覚えよう、私たちが社会に登場するまで、どれほど膨大な時間を費やし、多くの人々の助けを借り、限りない局面に出会いながら育てられたかを。

そして、あなたはあなたの能力を心配するかもしれない。 だが、神には神のご都合があって、新しい能力をあなたに示されるかも知れない。 それは私が持ち前の「ちっぽけな能力と自信」に頼らず、主から与えられる能力によって生きることが大切だからである。 だから、自分の能力不足を感じたとしても心配など要らない。 要らないどころか、かえって喜ぶべきである。 無いことを喜ぼう。 神は真っさらの画用紙であるあなたに向かって思う存分、自由に画筆を走らせて描かれる方だ。人間にとって、本当はそれが一番良いことであるが。 人はどうしても自分を誇りたい生き物だ。 人は自分の手で、自分の足で、自分の思いで仕事にかかり完成したい習性だからである。

クリスチャンであるかないかを問わず、忘れてはならないこと。 神は「無から有を呼ばれる方である」ということ。(ロマ書4:17) 人間が絶対に出来ないことはこれである。 だから「無に等しき自分」と感じるなら、それ以上素晴らしいことはない。 神に出来ないことはない。 人には出来ないが、神には出来るのだ。

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