■ 私が神にしたこと

あなたは信じるだろうか? 聖書は現実の出来事を語っていることを。 あなたは信じているだろうか? 聖書は生けるまことの唯一の神のことばであることを。 あなたは本当に信じているだろうか? イエスは神であることを。 人生はイエスご自身と如何に関わりつつ生きるかだということを。 聖書に対し、人それぞれの考え方や解釈の仕方がある。 持論を信仰にまぶして生きるあ方もおられるだろう。 大体は信じるが、馬鹿げた記事だけはやめてほしい、という意見もあるだろう。 様々な解釈と意見があろうとも、結果として神の前において、その人の責任はその人が取るのである。 何よりも生ける主と向き合っての人生こそ、潤いあるキリスト者になると思う。 ローマの総督ピラトは、内心ではイエスを殺すことに反対だった。 しかし、ユダヤ人の勢いとイエスへの殺意の強さを感じたとき、思いとどめる方策は持ち合わせていなかった。 場合によって暴動さえ起りかねない圧力を感じたとき、ピラトは自らの職を失う危機感をもった。 イエスの身柄がピラトからローマ兵に移ると、兵士たちはイエスを鞭打ち、緋色の着物を着せ、冠りをかぶせた。 緋色は高貴な人を象徴の意味であったが、冠りはいばらで出来ていた。 いばらの棘はイエスの頭と額に容赦なく食い込んだ。 更にイエスに唾を吐き、葦を王の笏に見立てて持たせた。 彼らはイエスを「ユダヤ人の王様」と言ってからかい、おどけて見せた。 イエスは自らがはりつけられる十字架を背負わされた。 刑場につくとイエスは十字架の上に寝かされ、太い釘が両手両足に打ちこまれ、十字架ごと数人の手で起こされ立てられた。 極限をはるかに超えた激痛がイエスの全身と心を貫いた。 彼には私たちが見とれる様な姿もなく、輝きもなく、私たちが慕う様な見栄えもない。 彼は痛めつけられ、苦しんだが口を開かない。 まるで屠り場に引かれて行く子羊のようだった。(イザヤ53章) 彼は一人一人すべての人類が、その罪から救われるために十字架に架けられた。 イエスは本来私たちが負うべき罪の代価としての十字架を背負った。 これによって私たちは己が罪から開放された。 しかし、イエスは私の罪、あなたの罪、そして誰かの罪のために死んだのである。 確かに私は直接的にイエスを痛めつけ、殺したのではない。 だが私という存在は罪の存在でもある。 この罪のために、主イエスは死なれた。 であるなら、イエスを虐待し、殺したのは私でもある。 直接的でなくとも、間接的であっても、大いに関係している。 己が罪と身代わりの死の意味を知れば知るほどに、イエスとの関わりが密接になるのだ。 パウロは言う、「私はキリストと共に十字架につけられて死んだ。だから今、生きている私はキリストを信じる信仰による」と。 私の罪は拳となって幾度もイエスを殴った。 私の罪は唾を吐き、あざけり、茨の棘となってイエスの皮膚を突き刺した。 私の罪は太い釘となってイエスの手首と足首を肉ごと、骨ごと打ちぬいた。 神は私達のすべての咎を彼に負わせたのである。 彼を砕いて痛めることは神の御心であった。 イエスへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエスの打ち傷によって、私たちは癒された。 主のみこころは、イエスを砕いて殺すことで、人間が支払うべき罪の代価を神自らが支払われたのである。

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