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■ O Happy Day すべてはあの朝から始まった

March 27, 2016

イエスは黄泉がえられた。
福音書の終盤が語る状況から行くと、これが一番相応しい「言い方」かも知れない。
イエスは死者として黄泉にまで降りられた。
そして新しい御体をもって現れたのである。
確かに湖の岸辺、弟子の目の前で焼いた魚を食べられたが、以前持っておられた、いわゆる人そのものの体ではなく、神の栄光宿るお体であった。

イエスが十字架で死なれたとき、それまでワイワイガヤガヤとして十字架を見上げていた群衆も警護のローマの兵士、隊長も直前までとは全く違う反応を示した。
ローマの隊長は神を誉めたたえて言った。「この方は本当に正しい方であった。」
群衆は後悔するあまり胸を叩いて悲しんだ、とある。
だが、すべては終わった。
イエスは死んだのである。
イエスを慕う婦人たちは遠くからこの風景を眺めながら、イエスのご遺体が葬られる場所を見守った。
70人議会の議員でありながら、イエスに対し好感をもっていたアリマタヤのヨセフは「思い切って(周囲の目と口を投げ捨てて)ピラトにイエスの遺体引き取りを申し出て、自分がかねてから持っていた新しい墓にイエスを葬った。
景色はこれまでと変わらなかった。
この世の常識と道理を結局イエスは打ち破れなかった。
完璧なまでの敗北である。
そして安息日が始まった。
すさまじいリンチと虐待、十字架刑はイエスを苦しめ殺し、人間世界は神のひとり子をこの世から抹殺した。
確かに抹殺した筈だった。
そして金曜、土曜、三日目の日曜朝、人類史上、未曽有の出来事が起ころうとしていた。

女達は週の初めの早朝、イエスの死体に塗るべく、香料と香油を携えて墓に向かっていた。
彼女達にとって朝の空気は重苦しく、悲しみと喪失感は心と視界に絡みついていた。
「主の墓の・・・あの重い石の蓋を、どうしたら動かすことが出来るでしょうか。」

目をあげて墓を見たとき、彼女たちは先ず、驚いた。
あれほど大きな蓋の石は転がしてあり、墓はぽっかりと大きく暗い口を開けている。
そして自らの目を疑う間もなく、まばゆい着物を来た二人の人が彼女たちの前に立った。
言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか?ここにはおられません。彼はよみがえられたのです。」
有史以来、一度も起こったことのない出来事が、この朝起こったのである。

そこで問いたい。
イエスがよみがえった証拠はどこにあるのだろうか?
蘇った証拠?確かにそれ自体を証明するものは・・無い。
だが、より確実な証拠は数えきれないほど有る。
二千年前の嘘か冗談か、眉唾ものの出来事と思われたが、打ち消しようがない証拠があり、そして今から先も人類ある限り、生まれ現れ人々の目と思いを打ちのめすのだ。

証拠、なぜクリスチャンと呼ばれる人々生まれたのか。
彼らは直ぐに教会(群れ)となった。
とんでも無いデマを広がらせまいとユダヤ人たちは必死になって彼らを追い詰め、迫害し、殺したが、効果は思う方向とは全く逆に広がり散るばかりだった。
弟子達はイエスのことに関して生まれた時のこと、両親、系図、生い立ちを探し当てた。
三年間の公生涯で彼が何をし、何を語られたかを思い出しては記録した。
なぜ、そこまでして掘り出す必要があったのか?
それは黄泉がえりのイエスの出生と存在と理由を知る必要があったからだ。
イエスがよみがえったから、クリスマスが位置づけられた。

イエスのよみがえり事件は数えきれない証人を呼び覚まし、そしてその御名は彼らの人生を作り変えた。
証人は証人を生み、地球上は証人で埋め尽くされた。
今生きるあなたの周りにも証拠たる証人はいる。
何故、次から次へと証人が増えるのか?

それは証人たちの魂と霊と人生が、イエスによって塗り替えられ作り変えられたからだ。
カナンの端、狭小な地に創造主は「永遠の命の存在」を産み落とされ、その「彼」は世界の救いのために弟子たちによって北へ南へ東へ西へと拡散していった。
2千年を経ずして、彼に関する記事を網羅した聖書は地上のあらゆる国語、民族語に訳され、
神の言葉は地球を包んでしまった。
その忍耐力、その無限性、その勢いと力、その諦めない永遠性は何処から来たとのか。
それは「HE HAS  RISEN!」『イエスがよみがえられた』からである。
それ以外に証拠などない。
そして、それ以外の証拠など要らないのだ。

今日、あなたの内に黄泉がえりのイエスはおられるだろうか?
息づいて、脈々と波打っているだろうか?
イエスは元気にしているだろうか?
イエスがいないクリスチャンなど存在しない。
クリスチャンとして元気がない、覇気がない、勇気が、大胆性がない?
しかし、それはイエスの責任ではない。
あなたの生き方が原因である。

空っぽの墓を見るためにイスラエルまで行ったのが1988年。
らしき所、らしき墓に入って見渡し、何となく期待外れ感を抱きながら、表に出ようとしてふと見上げた目に飛び込んだ文字。
「He has RISEN」(彼はよみがえられた)
ぼそっと言われた様な短い言葉でも、ハンマーでガツン!と頭を殴られた位の衝撃を受けた。
その場所こそが長旅で一番感動した場所となった。
あの場所で受けた感動は以来ずっと消えないで燃えている。
友よ、其処を見ずしてイスラエルに行ったと言うなかれ。

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