■ 私の主 私の神 (2016-04-24)

復活の主、イエスが弟子たちの前に現れたとき、トマスだけがその場にいなかった。 トマスの中に、自分だけがイエスを見ていないという不公平感と、取り残された不満は他の者に対する投げやりな言葉となっていた。 だから「私たちは主を見た。」という弟子たちの言葉はトマスにとって腹立たしかった。 彼は言った。「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ。また私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じません。」 トマスの気持ちは確かに痛いほど分かる思いがする。 その昔、私も宣教師にかみついた。 「天国、天国と言われても、誰か実際に行った人が帰ってきたとして、その人が私の眼の前にいるとしたら、信じよう。そうでなければ信じようがない。」 宣教師は反論して来なかったし、笑みさえ浮かべていた。 それが私にとっては尚更に腹立たしかった。 その半年後、アブラハムの信仰を心と肌で感じたとき、「私もアブラハムが信じた神を信じたい。」と言った。 何を見たわけじゃない。 読んだのは創世記6章から22章までの部分だけ。 新約聖書? わからない。 創世記の他? わからない。 イエス? わからない。 それでも、問われる電話の声におうむ返しに答えたものだ。 「私?罪びとです。イエス?受け入れます。彼?信じます。」 聞かれたから答えただけ。 中身など皆目わからない。 それでいいのか? いいか、悪いか、ではない。 イエスを受け入れたか、否定したか、だけだった。 約12か月間、キリストを意識の中から一切締め出していたのに・・・ 負けた。 無言のキリストに負けたのである。 見てもいないのに、「信じてみたい」が応えだった。 信仰とは目で見て信じるのでなく、心で信じるものだ。 心は見えないし、信仰だって目には見えない。 御霊なる神だって見えない。 第一、 仮に罪ある人間が神を見たとしたら、人はその瞬間に間違いなく死ぬのだ。 罪ある者が栄光の神を見ることなど、絶対出来ない。 だが神はイエス・キリストをこの世に与え給うた。 義なる神の御姿、聖なる姿を、地上の人間に現し給うた。 それがイエスである。 弟子たちはイエスを見た。 ヤイロもザアカイもヘロデもピラトもイエスを見た。 取税人も遊女も罪びともイエスを見た。 イスカリオテのユダも、ローマ兵も、祭司も律法学者もイエスを見た。 神は世びとの目に、神の御子を惜しげなく見させた。 それでもイエスを見て死んだ人はいない。 神は、そこまでこの世の人々の目の前に降りて下さり、ご自身を御子によって現したのである。 だがイエスは普通の人間ではなかった。 ふと思うこと。 なぜ弟子たちは、あれほど簡単にイエスについて行けたのか? ペテロもヤコブもヨハネもイエスのひと声「わたしについて来なさい」だけで、舟も網も捨ててイエスの後を追った。 一般人だったら、先ずついて行かない。 考えてみれば実に不思議であるが、今の私は理解できる。 イエスの内は罪一点もなく、完全に清く、義なる聖なる神の御性質が宿っておられた。 人々はそういうイエスを目にした。 「何かが違う。何だろう?何が違う。絶対違う。」だが違うは何かが分からなかった。 イエスは再度弟子たちの前においでになった。 その場にはトマスもいた。 イエスはトマスにいわれた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしの脇の槍の痕に触れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 トマスは言った。「わが主、わが神」 トマスは応えた。一人称単数だった。 これぞキリスト者の応えである。 教会は常に一人称複数、二人称複数、三人称複数で呼び合う、「私達、あなた方、彼等」。 私はいつ言っただろう?「私の主、私の神、私のイエス」 キリストはいつだって、一人称単数からの応答を待っておられる。 独り占めすべき相手こそキリストではないだろうか。

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