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■ この道の他に道なし/使徒22:3~10

50年前の夏、当時はカニ族と言われるスタイルで初めての北海道旅行に行った。 本州は列車の長旅、青函連絡船で津軽海峡を渡り、鈍行で太平洋岸を上った。 目的は大雪山に登ること。 大沼でボートを漕ぎ、駒ケ岳を仰いだ。 最近起こった少年の失踪事件で、急に当時を思い出した。 念願の大雪山は霧にまかれ、仕方なく頂上をあきらめた。 せっかくここまで来たのにという思いはあったが、勇気を出して諦めた。 キリストを見上げ、キリストをめざし、キリストを追う人生だって、時として霧にまかれることがある。 だから新聞に掲載された宮沢賢治先生の言葉で慰められた。 「永久の未完成、これ完成である。」 なるほど・・・と思った。 キリスト者の旅は天まで続く長い道行だ。 パウロは生粋のユダヤ人、生まれはキリキヤ海辺の町タルソ、育ちはエルサレム、ガマリエルに師事し、律法を教えられガチガチのユダヤ教徒パリサイ派であった。 だからこそ、新興宗教としか思えない「キリストの一派」は決して見過ごすことなど出来なかった。 男でも女でも見つけては牢にぶち込み、死にまで至らせた。 キリストは、そんなパウロを福音伝道者の先兵として捉え徴用した。 パウロの前身前歴を考えると有り得ない登用であったが、神の適材適所は間違っていなかった。 それどころか、パウロ以外は考えられない人選だった。 残念ながら、このユニーク性と柔軟性と未来を見分ける目など人間は持っていない。 人間は今と過去を見る。 神は未来と今を見る。 人は可能性よりも実績を見る。 神は実績よりも未来性を見る。 「この凄さに舌を巻く」などと言っているうちは、まだまだの青二才である。 と、思いつつ私も同類項だ。 すべての人間は癖を持っている。 パウロだって癖を持っていた。 我が強かった。 気性が激しかった。 キリストよりも先を行ってしまいそうな人だった。 やがて彼は練られ、掘り起こされ、造り替えられて主の「しもべ」どころか、「私は今や主の奴隷です。」とまで言う者となった。 それはパウロのすごさでなく、キリストがすごかったからである。 主はパウロを射止め、彼を支え、彼を導き、彼をあきらめなかった。 キリストの「それ」を知ったとき、パウロは徹底的に主の僕を生きた。 それは彼がイエスと生きたからだ。 私達だって同様だ。 私がすごいからそう成れるのでなく、諦めないキリストに気が付くならば、そう成れるのだ。 人は誰でも個性や癖、特質をもっている。 変わりたいけど変われない難癖もある。 わらびや筍などの山菜は灰汁(あく)を持っている。 どうも草食動物から種を守る創造主の知恵らしい。 灰汁は苦味、えぐみ、辛みなどであり、人の身体に適さないものもある。 これらの食材は味付けされる前に、必ず灰汁抜きされる。 しかし、灰汁抜きするということと同時に、持っている旨みを捨てることにもなる。 私にとって筍の旨みは、えぐみを含んだ旨みでもある。 だから幾ら食べても飽きない。 筍の灰汁を完全に抜ききったとしたら、旨みの殆どを抜くことにだってなる。 こんな事を考えていたら、ふと人間の灰汁に気がついた。 人間の灰汁は、蕨や筍の灰汁どころではない。 そして単なる癖、などと言っていられない灰汁もある。 家庭を壊す灰汁もある。 生きる環境、働く環境、すべての人間関係を破壊する灰汁だってある。 遂には自分で自分を壊す灰汁だってある。 茹でた位では抜けない灰汁。 キリストの道を求めて来て、この灰汁に気が付いた。 なぜか、主はこの灰汁を取り去らないでおられる。 自分だって楽になるのに、と思いつつも灰汁を手放さないでいる自分に気が付いた。 すると、どうだろう。 イエスさまは灰汁抜き出来ない、こんな者をさえ赦しておられるのか。 だから、もしあるとすれば「身勝手の徳」とでも言うのだろうか。 灰汁と共に旨みも抜いてしまっては、元も子も無いのは確かだが・・・ 自分をつくづく思うたび、イエスの寛容と忍耐に気づかされた。 イエスは今日も招いておられる。 「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」 見慣れた、聞き慣れた、読み慣れた、このみことば。 だから慣れきってしまった我が罪を知る。 視覚、聴覚にしか頼ろうとしない人間の愚かさ。 イエスの道、イエスが道、「主よ、二つと無い道に気が付かない愚かさと罪を赦し給え。」

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