■ 子供たちをイエスのもとへ/マルコ10:13~16
ある日、イエスのところに大人たちが幼子を連れて来た。 それを見たイエスの弟子達が彼らを叱った。 おそらくこう言ったのだろうか。 「ここはお前たちの来る場所ではない!」 イエスはそれをご覧になり弟子達に憤っていわれた。 「子供たちをわたしのところに連れて来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような小さい者達のものです。」 38年前の四月初めの日曜日、クリスチャンになって一年程の私は教会学校のクラスを任された。 三年生、四年生の子供たちが30人位だった。 何を、どうしたらいいのかも知らなかった。 その日のカリキュラムは、「日本人が敬う八百万(やおろず)の神々」がテーマだった。 そしてその朝、生涯取り組むべきチャレンジを示されたと確信した。 文字通り、数えきれない多神教の偶像がひしめく環境に、子供たちは置かれ、そして私は育ったのである。 イエスは弟子達が子供を叱るのを見て、憤ったとある。 イエスのところへ連れて行こうとしないことはイエスに怒られる場面である。 それは彼らを押し止めているからだ。 こどもは自分で判断できない。 大人は子供に魂が救われるチャンスを与えるべきだ。 ある本に書いてあった。 サーカスの像は常にあちらこちらの町や村を旅している。 彼らは動物園に有るような頑丈な像の檻とか杭を持ち運んでいるわけではない。 あくまで、ごくシンプルな杭である。 なぜ像はそれを抜いて逃げ出さないのか。 像の力をもってすれば、いとも簡単な筈なのに・・ サーカスの像は小さい時から躾けられてきた。 本当は簡単なのに、杭とは絶対に動かない、抜けないと思い込ませられて来た。 私達人間も、そういうことが身と心に沁み込んでしまったのだと思った。 人間とは生まれつき神から離れている存在であるのに、大人の価値観と世の道理が何より正しいと思い込んでいる節がある。 だからこそ、イエスは憤られたのではないか。 まことの救い主に出会うことは、すべての子供にとって有益である。 真の自由とは?勇気とは? 聖書から学ぶなら、自分が正しいと立って来た場所が間違っていたことに気がつく。 例話の中にタラントの話がある。 幾度も幾度も読んだものだが、ふと思いがけないことに気がついた。 この話は旅に出る御主人が、しもべ達三人にお金の運用を任せる場面である。 主人はそれぞれに、各々の能力に応じて、1タラント、2タラント、5タラントを渡し、留守の間に運用を任せたところから始まる。 1タラントと言っても、決して僅かな金ではない。 それは6千日分の労賃にあたる。 さて、しもべ達はどうしたか? 5タラント預かった者は二倍に増やして10タラントにした。 2タラント預かった者も二倍に増やして4タラントにした。 1タラントの者は地中に隠しておき、主人に1タラント返した。 主人が帰って来て、10タラント受け取ると大喜びだった。 「あなたは僅かな物に忠実だったからもっと沢山のものを任せよう。わたしと共に喜んでくれ!」 4タラント受け取ると、増やした者に言った。 「あなたは僅かな物に忠実だったからもっと沢山のものを任せよう。わたしと共に喜んでくれ!」 この二人のしもべには「彼は直ぐに出て行って・・」と但し書きがしてある。 タラントの者が言った。 「ご主人様、あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところから集めるひどい方だと分かっていました。さあ、これがあなたの1タラントです。」 すると主人は烈火のごとく怒って言った。 「お前は自分の判断でそうしたのか。ならばせめて銀行に預けておけばよかったのに。私は少なくとも利息くらいは手に出来たのに。愚か者、お前の1タラントは10タラント持っている者にやってしまえ!」 1タラントの怠惰なしもべは、1タラントを用いなかった。 彼は何故そうしたのか? 彼は主人をねたみ、同僚に嫉妬したからだろう。 「何故、自分だけが1タラントなのか?」 これが彼の愚かさの全てである。 主人は「各々の能力に応じて」任せた。 これは公平だった。 5と2と1の違いはあっても、半端なく大金であり、能力からすれば公平なのである。 彼はそれを僅かと感じて感謝もせず、ひたすら誰かを恨み、周囲をねたみ、一つとして前向きに捉えられなかった。 だが果たして彼という人間性の一部は、私たちそれぞれとにとって、「全く特異な者」で済ませられるだろうか? そしてクリスチャンは間違いなく、誰もが数タラントを任されているのだ。 マタイ25:14~30を改めて読んで欲しい。 神の国を見上げながら、イエスが見つめているのが小さい者であり、そして1タラントを預かった私たちである。