■ 弟子道/ヨハネ6:48~59
イエスは言われた。 場所は安息日にユダヤ人が集まるシナゴーグ(会堂)。 「わたしはいのちのパンである。これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがない。」 イエスは、人々に向かってご自分を食べよ、と言われた。 そして今もそう言われ続ける。 それは物理的に彼を食べるとか言うのでなく、真理として結果的に食べることになると仰せられた。 「わたしはいのちのパン」これこそキリスト教の根幹を示すといえることばである。 わたしを食べなさいとは、イエスを見上げ、イエスに信仰と人生の焦点を合わせ、イエスと生きる、イエスと暮らすことである。 いつの頃からか、「キリスト教」と世は言うようになった。 教会も「キリスト教会」と看板を掲げている。 では、本当にキリスト教をしているかというと、何処から何処までがキリスト教なのか分からない位広い空間である。 まぁ、あまり細かく言わないのが良いのかも知れない。 その広さだって人間が作ったものだし、皆自分達こそ正しいと思っているのだから。 だが、肝心の根幹を知らなくては目指す方も、方向も分からない。 「要するに、正しい人、良い人になることだよ。」と言われそうだが、そういう人ならあちこちにいるし、別に宗教をしなくても構わないだろう。 では、なぜキリスト教でなければいけないのか? それはイエスに出会って信じて救われる、つまり魂と人生をリセットして下さるのはキリストだけだからである。 人間は物理的に生まれ変わることなど出来ない。 もう一度、母の胎に戻って生まれ変わったと言っても、やはり罪びとは罪びとでしかない。 そして人生、数十年生きていれば、誰だって自分が聖なる人間だ、などと戯言暴言妄言を吐く人などいないだろう。 だが、キリストに出会うなら事は一大事である。 人は生まれ変われるからだ。 ここからが大切なシーンである。 神によって生まれ変わったとしても、きちんとした育て方をされないと、人は成長できない。 ほって置かれて赤ちゃんは生きていられるか? きれいなおむつを替えてくれて、乳を与えられる環境、これが大切だ。 離乳食の頃になると、しつけと共に大きな愛情に包まれれば、やがて二本足で歩くようになれるだろう。 そういう養育の環境が大切だ。 やがて神の言葉は彼をより大きく強くされるだろう。 大胆にキリストの前に生きる者にだってなるだろう。 と、ある日私は目覚めさせられた。 1984年だった。 当時の私はイエスを信じた赤子だったけど、環境はいきなりの小学校、中学校だった。 働くことが成長につながるのだと自分で納得しつつ、手探りで数年過ごしたが、ぶち当たるのは障害物ばかりだった。 五里霧中、暗中模索のような時期であったが、ひとつの出会いがあった。 その出会いが「目からうろこ」の世界だった。 文字通り、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」のである。 (第二コリント5:17) 別に私がハンサムになったわけではない。 別に生きている景色が変わったわけではない。 別に妻を代えたわけでもない。 ただ、本来見るべき世界が見える様になっただけである。 つまり見るべき方を、はっきりと見えていなかったのだ。 自分でそれは出来ないが、神がお出来になられた。 「成長させて下さるのは神である。」(第一コリント3:7b) 確かにキリストを見る私の見方が、考え方が替わったのである。 弟子道、主から与えられたタイトルである。 世の中には武士道あり、騎士道あり、茶道があり花道だってある。 ならば弟子道だってあるだろう。 弟子道とは、「キリストの弟子を育てる弟子の道」である。 弟子は死んでも弟子でしかない。 弟子の師はキリストのみ。 先生とかラビになることでもない。 あくまで「キリストの弟子を養育する弟子を育てる」である。