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■ 愚(ぐ)なるもの 汝の名はひとなり

June 5, 2016

他人から「愚か者」と言われて、笑ってやり過ごせる人など、まず居ないだろう。
しかし、自分から「私は愚かな者です。」とは言えるだろう。
その差は何なのか?
要するに他人から言われることと、自分から言うことの違いだけである。

「初めに神が天と地を造られた。」
創世記のこの言葉に対して「はい」と言えるか、「ノー」と言うかで、キリスト者か否かが分かる・・・・。
果たして、そうだろうか?
「イエスは私の罪を背負って、私の為に死んで下さいました。」に関してYESかNOでキリスト者を見分けるのである。
これだけである。

「愚(ぐ)なるもの、汝は人なり」
これは仮に、神が人間を見られて言うとしたらという仮定で私が想像した所見である。
(すみません。)
その理由、
1、被造物世界を破壊し尽したのは人間である。
2、人間は同胞である人間を殺戮した。
間違っているだろうか?
以上は信仰の有る無しに関わらず、歴史を振り返って言ったものである。

3、唯一、まことの生ける主、キリストを二千年間無視し続けた。
4、キリスト者といえども、人はやはり聖霊の支配を拒むだろう。
以上はクリスチャンに対して(自分を含め)、感じたことである。

私達は聖書、つまり神の言葉を学ぶ。
だが、この学びは学識のためではなく、人間が生ける神キリストに出会うためである。
キリストに救われ、キリストに従うために学ぶのである。
こんなことは当然、と思って取り組んでいるのだが、結果はなぜか、いつもチグハグになってしまうのはなんでだろう?
それは人間が自己中心的生き物だからだ。

「愚なる者、汝は人なり」
であるに関わらず、神は人間の為にイエスを遣わし、人間の罪の代価として死なせ給うた。
それでも、神の愚かさは人よりも賢いのである(1コリ1:25)
つまり、「愚なる我はグウの音(ね)も出ない」のである。

「聖言(みことば)うち開くれば、光を放ちて愚かなる者、悟からしむ」(詩篇119:138(文語訳)
私の好きな聖句である。
自分を愚なる者として、この聖句を読むと納得しきりである。
しかし、そうでない日は、腹を立てたくなる言葉でもある。
これは何故か?
自分を低くして読むか、そうでないかの差だけである。
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえ(分別)の無い者に悟りを与えます、である。

世にどっぷり浸かって生きて来た者には、聖書の言葉など単なる能書きでしかないだろう。
かつての私もそうだった。
しかし、人の心が開かれると、不思議なるかな、彼の心に神の光が差しこんで、悟りを与えると言うのである。
問題は神の言葉が云々でも光が云々でも無い。
第一、神はそこまでも身を低くされて、罪深きこの世に降臨されたではないか。
人の心が神に向かって開かれれば、神は人の心に触れられるのである。
何故か?それは神の言葉は生きているからだ。
何故、言葉が生きていると言えるのか?
それは神ご自身が生きておられるからだ。
この単純な解釈さえ、人間にとっては何とも難解なのである。

「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来る。」(ヘブル4:12)
キリスト者であるなら、この御言葉は魂の奥深くまで感じ沁みたことであろう。
どこの国の外科医が、魂と霊を切り分けられるだろう。

人は生きている。
だから生ける神を知って欲しい。
死んだ神ではない。
生きて働かれる神であられる。
そして神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。(マタイ22:32)

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