■ わたしがあなたを選んだ / ルカ10:17~24

1974年、確か私の子供が5歳と3歳の頃だった。 或る日、ふと思い立った。 「そうだ、教会という所へ行ってみようか・・・」だった。 別に大した意味はなかった。 家も建てたし、家族らしくなったから、共通した居場所(宗教?)があってもいいかな、と考えたのかも知れない。も知れない。 思い切って教会のドアを開けた。 結局、二度ほど通ったが直ぐにあきらめた。 話も雰囲気もチンプンカンプン・・・当然である。 初めから、何かを求める心など皆無だった。

健康、事業、家族関係、すべてが順調だった。 困った点など一つもなかった。 それでも、なにか不足しているものが有るような気持ちがしたのである。 いくら生きる環境や条件が満たされていても、人間にとって最も肝心なことは心が満たされていることであったことを、何となく感じていたのかも知れない。 見えるものでなく、人間相互の愛でもなく、変わらない普遍的な何かが・・・が分かったのはずっと後になってからだった。

1977年、家内が救われ、翌年に私が救われた。 思いがけない日に、思いがけなく、思いがけない方向からイエスさまは私達のところにやって来られた。 「あなたがわたしを選んだのでなく、わたしがあなたを選んだ。」(ヨハネ15:16)まさに、そのとおりだった。 救われたときも、やがて牧師に導かれたときも、「彼が私を選んで下さった。」ことは事実であった。 そのせいか常に葛藤があった。 特に牧師という職業は・・・ 私が選んだのでないから余計に嫌だった。

ある日、弟子達が大喜びで伝道の旅から戻って来た。 大喜びの原因は多大なる成果があったからだ。 「主よ、あなたの御名を使うと、悪霊どもさえ、私達に服従します。」 イエスという御名の効果と言うべきであるが、弟子達は完璧に有頂天だった。 しかし、イエスは彼らを嗜めていわれた。 「本当に喜ぶべきは、それらのことよりも、あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20節)

人は仮に全世界の宝を手中にしても、幸せとはいえない。 やること、為すこと、次々にうまく行っても、幸福とは思わない。 いつ、それらを失うか分からない不安は益々高まって行くだろう。 いつ、人々が自分から目を逸らすようになるか心配するスーパー・スターが辿る生き地獄は、画に書いたような同じパターンだ。 やがて彼らは異性、アルコール、ドラッグに溺れ、家庭は崩壊、その行く先はお決まりコースだった。 心が満たされることを軽視し、見過ごした結末のすべてがそこにあった。

天に自分の名前が記されている。 これがキリスト者の一番、幸せなことであり、人間らしく生きられる道である。 地上の宝は泥棒や詐欺師が狙うだろう。 幾ら人々の賞賛を得られたとしても、人の心はいつか必ず去って行く。 健康は100%、終わりが来る。 美貌も体力も終わりは決して遠くない。 事業で遺した莫大な財産があったとしても、子孫は骨肉の争いになりかねない。 この世で終らない価値を持つものは一つとして無い。 世から得たものは世に残すか埋めるか、消えて行くかである。 天からのもの、神の国からのものしか永遠性を持たない。 イエスはそれを指摘された。 果たして今、あなたの名前は天に記されているのだろうか? これこそ最高の力であり、勇気であり、価値であり、宝である。

目に見えないものだけが永遠である。(第二コリント4:18)

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