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■ 自然・不自然 / マルコの福音書4:26~29 (2009-01-25)

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」マルコ4:26~27 と、イエスさまは言われた。

私は何となく、この箇所が好きである。 神さまの国とは理解しているようで、やっぱり分らない。でも、「分らなくても、それでいいのだ。」なんてフレーズを口走りたくなるような気もする。なにせ、人間どもに神さまの国など分かる筈もない。分ってみたとて、どうすることも出来ない。人間の浅知恵と微力で、神の国などに入れはしないから。

聖書から知ったことは、イエスさまを信じること、この人生を主と共に生きる、そうしていれば、やがて天国に行ける。これだけ分っていれば良い、と思う。いやがてこの人生が終わり、待ちに待ったときが来る。そのときには、すべてが分る。

「神の国」という言葉は新約聖書に溢れに溢れている。特にルカの福音書にはたくさん登場する。 ところで、旧約聖書に何回登場するだろう? 今まで考えたこともなかったが・・・ 驚いた、実に一回も無い! そして、そこに新約聖書の強い意志とメッセージを感じた。 「神の国が近づいた!」というメッセージは、バプテスマのヨハネであり、イエスさまであった。 新約聖書で59回登場する意味はここにある。実にイエスが、神の国をもたらされたのである。 十字架が神の国をもたらしたのである。イエスのよみがえりが・・・ 私達罪びとが十字架によって神に帰り、神の子供となる。これこそ、「神の国」の到来でなくて、何であろうか。

しかし、神の国を一言で言い表すことは出来ない。 神の国はそれだけ多面であり、多様に言い回しができ、様々な考えと、とらえ方ができるからだ。 ただ一つ、この表現は的を得ていると言えるだろう。 「神の国」とは、神が完全、全面支配されている世界であると。 そして、その世界はイエスがこの世に来られたときから、私たちの合間に存在し、そして消え、また現れるらしい。何とも不思議なるかな、神の国は。

蒔かれた種は時間の経過と共に発芽し、根が伸びる。人が寝起きしているうちに、芽は成長し、やがて実がつき、そして人が刈り取りをする。 人にはその理由がわからない。つまり、自然という世界が摂理のうちに成長する。

自然は創造主の被造物世界であり、創造物一つ一つには創造主の知恵がインプットされている。 全ての生き物、植物には神の知恵が埋め込まれ、生き物は意識、無意識を関知せず、ひたすら、その本能によって生き、存在する。 自然界は創造主の知恵で生き、神の愛を知っている。神の愛を感じたりする必要はない。元々、神の心の中に存在し続けるからだ。そして神に向かって生きる。 自然とは文字通り、置かれたまま、あるがままである。

この被造物世界で唯一、自然の法則、つまり創造主のみ旨と知恵に背く生き物が存在する。 それが人間である。

人間大きな勘違いをしている。 自分の気のおもむくままに生きることこそ「自然である」と。 だが、それは自然ではない。なぜなら、人間は造り主に背いて生まれて来ているから、神に帰ることこそ、自然な生き方である。 神に帰るには、十字架のイエスを信じて、生まれてこのかた神から離れてきたことを、清算していただかねばならない。実にその道しかないのだ。 創造主が造ってくれた道であり、開いてくれた道である。 その道から離れて、人が自然に生きられる術など有り様が無い。

神の国は遠い様で身近に出現するそうだ。でも触れたり感じたりは出来ない。 それは意識して量れるものではない。神だけがご存知で、神だけがその存在を知る。 なぜなら、それは神がもたらされるものだからであろう。 人にはどうすることもできないが、ある瞬間だけ、人が感じられることもあるらしい。 だから、「神の国」なのである。 神の国は各も不可思議な存在である。 なぜなら、神が全面的支配をされる、目には見えない領域だからである。

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