■ 何もしないことの贅沢 / こころのままに (2008-08-21)
私はこの夏、誠に自分勝手ながら、三週間の休暇をとらせていただいた。 思うに子供の頃からは50年ぶりの長い夏休みであったが、実際は何とも短く感じた次第である。実に贅沢な時間であった。 この目的は、「何もしない」ことであった。すべての仕事、教会奉仕からも離れた。 極端に表現すると「ボケッ~」とすることに徹した。
アメリカという広大な地で、人間が自然の中に置かれて生きていることを実感した。 私は田舎が好きだ。どこまでも広がる美しい田園風景。豊かな自然の中で、人は癒される。神さまの恵みと祝福を満喫し、何もしないことの祝福を味わった。 夕方になると飛び交う蛍。飛んでくる鳥たち。 中でもハミング・バードが何とも愛らしい。世界で一番小さい鳥。体は小指ほどだが、カラだの半分にも及ぶ長い口ばしで、花の蜜を吸う。羽を物凄い速さで動かして、空中に数秒間の静止さえできる。創造主が与えた給うた知恵と本能。この鳥をカメラに収めようと、私は長い時間を費やした。この鳥は非常に敏感で、視界の中で少しでも動くものがあれば、途端に飛び去ってしまう。その神経たるや、すごいものがある。まるで、背中にさえ目があるのかと思わされた。
休暇中、私は三つの教会を訪問できた。 従来のオーソドックスな礼拝。そして小道具をたくさん駆使して、視覚に訴え、活き活きとメッセージする礼拝。更にふんだんにワーシップを取り入れた礼拝。 どの礼拝も、主をたたえ、魂の刈り入れと養育に努め、福音の供給に熱心であった。 神さまは、人間に素晴らしい成分を与えてくださったものだ。 見えない神を、あたかも見えるもの以上に見させ、喜びと感謝、感動と確信を、信仰という神からの賜物によって、神と共有させておられるからだ。
朝起きて、一番にポーチに座る。青々とした芝生と向こうに広がる大きな木々。 朝陽が上がる。紫色の雲が大波のように並んでいる。 明るい太陽の光りが差してくる。陽の光りは真横から斜めへと変わり、露に濡れた芝に暖かな熱を投げかける。 全てを忘れさせる時間である。コーヒーを飲みながら、ゆったりと流れる時間を楽しんだ。 日本での慌しく動く時間はここにない。あるのは静寂と平安のみ。思わず、主に感謝の祈りが口をついて出る。
恵まれた人生であった。 それはイエスさまが走りよってくださったからだ。 主は私の罪の全てを洗い流し、神さまの子供としてくださった。
『わが神、主よ。 あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。 私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。』 詩篇40:5
無心になることは難しい。 でも、何もしないでいられることは、何とも素晴らしい。 これ以上の恵みがあるだろうか。 「最高の贅沢な時間、主よ、感謝でした。」 オハイオとカルフォルニアの旅、自然を満喫し、家族と暮らし、人々との交流があり、思い出に残る滞在であった。