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■ あなたは今のままで十分ですか / ローマ人への手紙8:28~39 (2007-08-05)

あなたの信仰生活、今のままで十分ですか?
もし、不十分であるとしたら、その原因を知っていますか?
 

この様な問いに対し、自己責任を認識しているが、今は為す術も無いと思う場合がある。
だが、実際は何らかの術はあると思うし、神さまが助けてもくれると信じる。
 又、自分の責任を他に転嫁し、どうしようもない、と決めている場合もある。とりわけ、教会のせいにしたり、牧師、役員のせいにしたりする場合がある。また、集会のせいにし、挙句は神さまのせいにさえする。中には、当然であるが牧師や役員、他者の責任もある。
だが、信仰の人生は神が与えた給うたものだ。神が責任を取ってくださると腹をくくり、やれるところまで力を尽くし取り組んで、いよいよ駄目ならあきらめて、潔さを持って、別の選択もあるだろう。二度と立ち上がれないところまで、頑張る必要はない、と私は思う。それ以前に、主と十分な交わりがあれば、ともかく十分と考えても良いと思う。
 

 教会には求道者と言う肩書きの人達がいる。どういう人たちかと言うと、今はまだイエスさまを信じ受け入れていない人のことである。または、教会に通い出した人たちも、その肩書きを持っている。
だが、私は以前このことに関して違和感を持った。それは求道とは行くべき道を知っていて、そこを目指しながら生きる人の筈ではなおだろうか。
 新来者の場合、まだそこまで行ってない。つまり模索の途中である。
 「・・らしい」とか「・・ではないか」などと曖昧な世界であって、真理の道の何らかも知らないのだから、求道者ではない。
 

 求道者とは、イエスを信じて、バプテスマを受け、礼拝に参加し、聖書を学び、朝夕の祈りに勤め、己が内なる葛藤を持ちつつ、イエスの歩まれた道を追うべくして生きる人だと思う。そして、この求道の道は、生涯続く。決して極めていないし、達観者でもない。達成者でもない。天国の門に至るまで、続く道である。仮に神父であろうと、牧師であろうと、宣教師、伝道師であろうと、普通の信徒と同様、それぞれの場所において、求道者であると私は思う。
 

 求道者であるから、弱さもあり、失敗も犯す。道を誤まる。目標からもずれる。求道者ゆえに、それでも赦される。イエス以外、皆、求道者であるのに、「先生」と呼ばれて、気持ち良くなっている我が身を考えると、情けない。
 「あなた方は師とか先生と呼ばれてはならない。あなた方の師はただ一人、キリストである」マタイ23章8節以降
 誰かがたまに「前田さん!」などと呼ぶと、急に腹が立つというか、面白くない。それは、自分が既に、忌まわしいパリサイ人になっているからだ。
 神学生のときを思い出す。ある時間、意見としてこのことを話したが、いざ自分が牧師になってみると、いつの間にか、「この快感」に甘んじていた。そして何となく、失いたくない部分である。主の憐れみによってのみ、立たされた牧会の責任者という立場であるから、「前田さん」と尊敬をもって言われれば、それで十分の筈なのに・・・
 

自分の不十分を又一つ知らされた。取りあえず!認識しただけでも良し、として、主の憐れみに今日も包まれて、生かしていただこう。
 人間とは各も不十分の塊の存在なのである。
 

 

 

 

 

 

 

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