■教会は愛の(アガペー)塊/1ヨハネ4:7~21
昔から眺めて来た画、聖なる夜の聖家族。
生まれたばかりのイエスを大切そうに抱くマリヤ、母子を覗き込むように見守るヨセフ。
少女の様なマリヤの横顔、そして大人びたヨセフの目は神秘そのものの嬰児を凝視していた。
色々な画家が描いた画にせよ、三人を取り巻く空気は世の平安というより、どことなく不安気だ。
心配がいっぱいに漂っている様でも、静けさと厳かな空気は彼らを包んでいた。
それは8人もの大人たちが、赤子のイエスに神経を集中しているからだと思う。
暗闇に浮かぶ聖家族、ロバや羊が隅にはべり、三人の博士達も笑みを含んで見守る面持ち。
仮にあの場に自分が置かれたとしたら、どんな気持ちで彼らに連なっているのだろう。
そして今年気づかされたことが一つ。
私は描かれた登場人物ばかりを見ていたが、画家さえも描けなかった存在を見るべきだった。
それは父なる神、御霊の神だ。
神はイエスを世に生まれさせ給い、今、御子をマリヤの腕の中に納めさせ給うた。
神はその偉大なる事業を遂に達成せられたのである。
その達成感こそ、私達が見ようとすべきものでなく、汲み取って行くべきものであるのが聖夜の場面だと思う。
私自身、キリスト・イエスに出会う前に、あの画は幾度か目にした筈であるが、振り返って
みても感想など無い。
おそらくキリスト信仰も無かった自分は、真剣に眺めたことさえ無いからだろう。
そこで今年のクリスマス、あの聖家族の画を眺めるとき、果たして自分なら、どの角度から、どの位置からイエスを眺めているだろう?であった。
キリスト・イエスを人生と自分自身に受け入れた今だからこそ、敢えて考えたいと思った。
教会で聖夜に行われるキャンドル・サーヴィス、沢山の小さなろうそくの灯りに照らし出される人々の横顔はみな美しい。
彼らがクリスチャンであろうとなかろうと関係なく、美しい。
それは集会の真ん中に御子イエスがおられるからだ。
人々の信仰がまちまちであろうと、無かろうと、彼らは間違いなく聖家族を感じるため、覚えるために集まった。
同時にその瞬間、世界の人々の平和を願う思いが胸に広がる。
どの国の人であっても、仮に何処の戦場に置かれた人でも、せめてこの瞬間だけは平和の主に心を向けて欲しいと願う。
キリストは神によって、お生まれになった。
彼は身も心も、その存在と降誕は神の100%御支配の下でお生まれになった。
クリスチャンも神によって生まれた。
100%、神の御支配によって生まれた(ヨハネ福音書1:13)。
つまり、ここにイエスと私達クリスチャンが唯一共通する点がある。
こんなこと、何故か誰もが知っているようで知らないことである。
「あなたは神によって生まれたんだよ」と聞かされて違和感を持つ人がいるとしたら・・・
それはあくまで私達の霊的誕生のことである。
神によって生まれたのであるなら、その成長は誰によるのだろう?
当然、神による。
勿論、あなたの選択も努力もあっただろう。
だが、神によってあなたの今がある。
誰かの手を借りたこともあっただろう。
だが、成長させたのは神である(第一コリント3:6~7)。
もし、そうでないとしたら、もう一度、聖家族の真ん中ですやすやと眠っておられる赤子を拝して来て欲しい。