■ 好い加減が好きですか? / マルコの福音書6:14~29 (2005-05-29)
好い加減? 好い加減と言う言葉は相当極端な意味を含む。仮に風呂の温度なら、丁度良い湯加減であるが、対人関係とか仕事に対する態度であるなら、信用ガタ落ちである。そして、この世はなんとか乗り切れるかも知れないが、神の前においてはそうは行かない。日本の八百万の神々を信奉する風土の中で育った我々は、どうしても丁度良い位置、つまり右にも左に片寄らず真ん中が無難と言う風潮がある。そういう気質が世にあっては打たれる釘にならず、自ら進んでアゲインストな社会の風に立ち向かうと言った独立独歩の人間にならない、という総国民平均思考の持ち主となったのはないかと思う。
ヘロデ・アンティパス、イエスの時代にユダヤの王であった。彼はなんと彼の弟、ピリポの妻、ヘロデヤと暮らしていた。律法に照らし合わせれば、とんでもないことである。この点を預言者ヨハネに指摘された。ヘロデもヘロデヤも当然ながらヨハネが鬱陶しい。そこで、王の権力でヨハネを獄にぶち込んだが、殺害してしまっては民衆が納得しない。ヨハネの神への真っ直ぐな人生と言葉は、言われれば腹が立つものの、道理も筋道も通っているので心惹かれるものもあった。つまり、ヘロデは心を二分化した中で生きていた。一方で自我と肉欲を愛しつつ、又もう一方で聖さと義しさに心を惹かれたのである。だが、それは彼だけでなく、すべての人間の内面ではないだろうか。理性と良心、そしてモラルというブレーキで何とか心を抑えていても、ある局面になると箍が外れ、とんでもない過ちを犯してしまう。人は創造主がその心に住んで下さらねば、どう仕様もない生き物なのである。どんな高学歴であろうと、高い地位の人であろうと、関係ない。政治家であろうと大統領であろうと、皆同様である。内なる神の声を聞かねば、人は時として獣以下になる。悲惨な事件、驚くような出来事が起きたとき、必ず当事者の周囲の人たちは言う。「あんなに真面目でおとなしい普通の人が・・・」そして絶句である。そして皆思う。「私に限ってあり得ない」と。・・本当にそうであろうか・・・
創世記の時代から神は人間に強いメッセージを送り続けて来られた。それは自分の好む偶像を拝むのでなく、神だけを礼拝せよ、である。だが、この方を礼拝する人生は、人間にとって一見堅苦しく思える。そこで、人間は内なる我が思いに任せる。つまり、自分のしたいことをする。これこそが自由である、と人は錯覚して来た。したいことは、やがてせずにいられないこととなり、人はそのものの奴隷となる。最早、人にとっての自由は、彼の王となり、人はすべての快楽と罪、傲慢と反倫理、反道徳の奴隷となる。昔、イスラエルに王がいなかった時代、カリスマ性をもったリーダーたちが次々と現れた。聖書は言う。「その頃、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと思うことを行っていた。(士師記21:25)」今日、あなたの心の王は誰だろう?キリストか、またはあなた自身か。仮に自分が王であろうと、人間の心の奥深いところで、自身が叫んでいる。「あなたの創造主、まことの神に帰りなさい」と。
オズワルド・チェンバーズ師は言った。「最善の敵は罪ではなく、善である。」創造主に向かって生きることを最善とするなら、人間は己の善をもって神にはむかう、ということであろう。「神の国とその義を第一に求めよ。」と言われたイエスの言葉が響く。
私は思う。「神に真向かう者だけが、自分を知らされ、そこで更に神を知る。神に向かわずして、人は己を知りようもない。」
時至り、ある日イエスがヘロデの前に連れて来られた。ヘロデはイエスに非常に関心をもっていたし、イエスが行う奇跡を見たい、とも願っていた。イエスに色々質問するが、イエスはヘロデに対し何も答えなかった。ヘロデはイエスを侮辱罵倒し、派手な衣を着せ、時のローマ総督に送り返す。やはり、ヘロデには真理を見通す目がなかった。彼の好い加減は、自我の虜となることだけであった。バプテスマのヨハネを殺し、そしてイエスを殺した。
真理に興味を持つことと、真理に生きようということは全く異なる。興味は誰でも持てるが、生活に取り入れようとは、殆どの人間が思わない。人の心は紙一重である。心を仕切る真ん中の仕切りは紙のように薄い。仕切りの片側は神の側に生きる。もう一方は自我の虜、自分が中心。これは西と東ほど違う世界である。人の心はかくも複雑、混沌である。ああ、もしその心にイエスを迎え入れていたら、どれほどの人生が救われたであろうか。当事者達だけでなく周囲も救われたのに。人にとって好い加減の場所は居心地が良いかもしれないが、それは神を拒む位置である。「わたしが道であり、真理である(ヨハネ14:6)」とイエスが語れば語るほど、人間は反対方向に逃げるか突き進む。そして、十字架は今日もそのために立っている。