■主はよみがえられた/ヨハネ20:1~16
キリスト教の中で、奇跡の中の奇跡といえば、完全に死んだ筈のイエスが三日目によみがえられたことである。
では、そのことを信じたからクリスチャンとなったのか、と言えばあながちそうではない。
おそらく、多くのクリスチャンが同じことを言うと思う。
また処女マリヤから赤ん坊が生まれることを信じたので、クリスチャンになったという人も殆どいないと思う。
牧師をしている中での実感である。
それは、奇跡が信じられないでクリスチャンになることに二の足を踏んでいる一般の人が案外多いと考えたからである。
聖書の神を受け入れたので、クリスチャンになった私は、一番容易い経路だったのだと思う。
何故なら信じる積りが、ほんのわずかにも無くて、興味も無かった私はたった数時間の悶々に終止符を打ったということは、聖書自体のすべては「研究して理解出来るものではない」という証しである。
毎年、春に訪れるイースターは嬉しい季節の中にあって、最高最大の喜びをもたらす。
それは突然やって来たサプライズかの様に圧倒された思いさえある。
教会のカレンダーには、その日が印刷されているし、予想も出来るし、計画も立てている。
であるのに、大きな喜びと共にイースターにやってくるのだ。
「イエスは死者の中からよみがえられた!」
教祖が、よもやよみがえられた云々の次元ではない。
それこそ自分とイエスの関係であり、なければならない出来事だったからだ。
マグダラのマリヤという女性は、イエスの御身体に香油を塗るため暗いうちに墓に向かった。
すると、墓を塞いでいた大きな蓋石が転がしてあった。
ローマ兵が封印しておいた蓋なのに・・・
中を覗いてみると包帯でグルグル巻きにされ、置かれていたイエスの御身体が無い。
彼女は驚いて弟子達の元へ、とんで帰って事態を説明した。
ヨハネとペテロも驚いてやって来て、空っぽの墓になっていることに気がついた。
そして、イエスの御身体が無くなっていることを信じた。
これがイースターの朝の出来事だった。
その後、イエスはマリヤにも、弟子達の前にも現れて、ことの次第と聖書の約束の成就であることを彼らに教えられた。
イエスは黄泉の国から、復活されたのである。
彼は死者の中からよみがえられたのである。
このイースターの出来事によってイエスの言動、イエスの活動、イエスの生い立ち、イエスの出生が弟子達によって記録され、書き残されたのが福音書である。
旧約聖書が約束していたメシヤの降誕、十字架で殺されたメシヤ、よみがえられた救い主の到来であることが遂に現実化したのである。
そして、いかなる人間であってもイエスを信じるならば救われる、という福音の真理と実践がスタートしたのである。
奇跡を見たら信じる、と言う人は少なくない。
しかし、奇跡なら幾らでも起こっているのがこの世界だ。
では奇跡を見て何を信じるのか?
奇跡が終わったらどうするのか?
おそらく、そういう人は常に奇跡を見続けていないと不信仰になるだろう。
昔、ウェップ・ペブローという牧師がおられた。
彼の子供たちで一番末の子が死んだ。
小さな遺体を教会の人々と共に墓に葬った。
やりきれない日だった。
教会の裏手にある自宅の玄関ドアを押し開いた。
その瞬間までは、次週の礼拝のメッセイジ・テーマが彼の脳裏を駆け巡っていた。
目をあげると壁に掲げた額の文字が飛び込んできた。
「わたしの恵みはあなたに十分である」(第二コリント12:9)が迫った。
子を失った悲しみの脳裏で「人生の試練を、どのようにしたら恵みとして理解出来るのか」という課題は瞬間、停止した。
そして主は彼に語られた。
『私は既にあなたに対して充分な恵みを施しているのに、どうして尚も求めるのか?』
今年のイースター、第二コリント12:9が私の心によみがえった。
恵みとは嬉しいこと、悲しい事、残念なこと、涙と後悔、呻きと苦しみ、希望、願い、総じては全て神の祝福と考えているが、一番大きな恵みは、よみがえられた神の御子、メシヤであるキリストは既に私の中に住んでおられるではないか。このこと以上に大きな恵みは一つも無いのに・・・」
兄弟姉妹、もしあなたが神からイエスをいただいたのであれば、そのこと以上に価値ある恵みは無いのである。