■母たちの軋轢/創世記16:1~15
クリスチャン・ホームと言うと、先ず両親がクリスチャンであることだろう。
やがて子供達も教会に行き、キリストを信じると本来のクリスチャン・ホームとなる。
旧約はキリストが来られる前であるから、せいぜい「神を信じる家族」とでも言おうか。
お父さんはアブラム、お母さんはサライ、二人には今なお子供が生まれなかった。
お父さんは神の約束を信じていた。
お母さんはと言うと、どれくらい信じていたかは私には分からない。
取り敢えず夫と共に行動し、生活を営んでいた。
お手伝いはエジプトから連れて来ていたハガルという若い女性だった。
サライのいう事は何でもハイハイと聞いて働く女性だった。
アブラムもサライも子供を欲しかったが、特にサライは母と呼ばれない自分が悲しかった。
「子は神からの授かりもの」という意識があったので、子供が出来ない彼女は神に対してじれったい思いがあった。
或る時、サライは意を決し夫に打ち明けた。
「ねぇあなた、ハガルによって子供を創ってくださいませんか。そうすれば、その子によって私は母と呼ばれるから。」
アブラムはサライの気持ちをかねてより感じていたこともあり、深く考えることもなくハガルと寝た。
数か月後、ハガルのお腹は大きくなった。
するとハガルは自分がアブラハムの妻になったかのような錯覚をし、女主人に対し高慢な態度を取り始めた。
これに怒ったのはサライである。
夫の前に怒りをぶちまけた。「あなた、見ましたよね。ハガルの生意気な態度を。私は赦しませんよ。あの娘は単なる手伝い女なのに、私を見下げたのです。神さまは何と思われるのでしょうね!」
取りつくしまもないサライの怒りの矛先をかわせず、夫は言ったものだ。
「だってあの娘はお前の女中だろう。だったら主人はあなただろう。自分の物を煮て食おうと焼いて食おうと好き勝手にしたらいいじゃないか。」
かくしてハガルは「神を信じる家」から締め出され、荒野に放り出された。
身籠った女ひとり、荒野の旅は死を予感させるだけだった。
「私が一体何をしたというのだろう。
ただ奥さまのご意向に従って身籠っただけなのに。
旦那さまだって、なんて冷たいお方だろう。
この胎の子は、あの人の子供なのに。」
彼女はアブラム家を恨んで泣いた。
悔しかった。
エジプトでは無理に売られ、今日まで働きどうしで仕えて来たのに。」
不条理を慰める者もなく、彼女は人生を恨んだ。
ハガルはやっとこさで泉を見つけると、疲れてその畔にへたり込んだ。
主の使いがハガルを見つけた。
「サライの女奴隷ハガル、あなたは何処から来て何処へ行くのか?」
彼女は答えた、「私の女主人、サライの所から逃げて来たのです。」
御使いは言った、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。あなたの子孫は、わたしが大いに増やすので、数えきれない程になる。
そして、その子の名をイシュマエルと名付けなさい」
不条理の波にもまれ、その波間を浮き沈みしていた彼女と胎の実を神が救い上げられた。
「神を信じる家族」の身勝手な仕打ちの後始末をしたのは、アブラムでもサライでもなかった。
神であった。
アブラムを、遠くウルの地から呼び出した神であった。
その神が責任を取られた。
神の約束を瞬間見落とし、妻の我儘な申し出を安易に受け入れ、イシュマエルという命を軽んじた祝福の父アブラムという族長の尻拭いしたのは創造主なる神であった。
私は自己中心と認めつつ、敢えて一つのことを考えてみた。
創造主は何故、アブラムを止めなかったのだろう。
サライとアブラムの間に、そしてアブラムとハガルの間に、どうして割って入らなかったのだろう。
彷徨うハガルを泉の畔で探して下さった神なのに・・
そして、「あの時、この時、もし主が介入して下さっていれば・・・」と、人生で幾回も思ったものだ。
しかし!もし人間の熱心に火がついたとしたら、果たして誰にも消せないのである。
そして人生を恨む人は、何とかして神に責任を転嫁したいのだろうか。
人の罪は歴史に足跡を残し、神の愛は人の罪の後始末をされる。
今年の母の日、いつもとは違う趣で「母達の軋轢」を追ってみた。