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■チャレンジ/ロマ書4:16~25

チャレンジ(挑戦)とは、「特に困難なこと、未体験のことに取り組む」という意味である。

つまり慣れきってしまったことや、過去に体験していることに対しては、チャレンジと言うべきではないのであろう。

 

平坦に「私は神を信じています。」と言う人ならどこにでもいるであろう。

では聖書ローマ4章17節をあなたは本当に信じておられるだろうか?

『神は無から有を呼び出す方』

これって人間には到底出来ないことである。

マジックショーは別にして、人間は無から有を呼び出すことは出来ない。

 

『神は無から有を呼び出す方』とは、神は1000%不可能でも可能を呼び出すということだ。

更に仮にその意味を熟知した上で、そういう神を信じていますと、どれだけの人が言えるだろう。

更に、絶望と困難の崖っぷちで「はい、私はこの神を信じます。」と言い切ることは・・・

聖書は更にいう。「アブラハムは望みえない時に、望みを抱いて神を信じた。」

神は「そういう方」であり、アブラハムは「その神」を信じたのである。

 

このことこそ、クリスチャンに課せられたチャレンジであると思う。

余りにも安易に「私は神を信じていますから。」という世界に身をおいていないだろうか?

アブラハムは世界で最初にチャレンジを受けた人であり、神に答えた人である。

彼は「いっとき」のチャレンジでなく、長い時間、個人的な問題で、人生を通して、神からチャレンジを受けた人である。

そして彼の人生が集大成に至ったとき、最大のチャレンジがやってきたのである。

彼ほど「神を体験した人」はいない。

毎日、毎晩、彼の脳裏から「生ける神」が消えたことはなかった。

そして彼が神から知らしめられたことは、「彼のもの」と「神のもの」を認識することだった。

その「神のものであるイサク」を知ったからこそ、彼はたったひとりの息子、かけがえの無い奇跡の息子を神の前に全焼の生贄として捧げたのである。

 

アブラハムも妻のサラも、互いの肉体の機能は既に衰え果てていた。

そういう状況の中で神はいわれた、『来年の今頃、あなたとサラに間に男の子が生まれる。』

そのとき、二人とも心の中では笑っていたとある。

それは神の約束自体を笑ったのではなく、自分達の老いた肉体において赤子が生まれるということに対してだった。

そこで信じる人間は果たしてこの世にひとりとしていなかったと思う。

それでも、アブラハムは信じた。

どのようにしてか分からない。

何故か分からない。

だが、彼は神を信じた。

主はいわれた、「今、わたしはあなたが神を恐れることがよく分かった。あなたは自分のひとり子さえ惜しまないで、わたしにささげた。」

 

今も神はクリスチャンに対して、「生きた信仰」を求めておられる。

「信じられる」その程度であるなら信仰など無用である。

つまり信仰など要らないということ。

信仰とは「信じる」からこそ、そこに真価があるのだ。

「私の神は無から有を呼ばれる方」、改めて考えると、全くとんでもないことを、聖書は語っている。

自分の平安な心に向かって、鍬かスコップか、はたまた巨大な重機の刃が、ザックリと音を立てて突き刺して来るかのように感じてしまう神のチャレンジである。

 

人の心は繊細で敏感で脆く壊れやすい。

中々鍛えようがないのが人の心である。

しかし、信仰は鍛えられる価値がある。

鍛えられなければならないと思う。

そして鍛える方は、神である。

 

アブラハムの信仰を神が鍛えられた。

全く普通の人だった彼が、長年に渡って鍛えられた。

どうして彼において、それが可能であったのか。

それは「神は生ける神」であったからだ。

その方と毎日向かい合っていて、もし変えられないとしたら、それは向き合い方が相当悪いか、自身が神を否定しているからだろう。

 

あなたの神は生きておられる。

あなたが見上げる神は、死んでよみがえられたキリストである。

あなたが信じる神は、あなたを呼んで下さる神である。

そして、あなたの神は『無から有を呼ばれる神』である。

 

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