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■全面降伏/第二歴代誌20章1~13

39歳の頃、教会の弟子訓練で出会った聖書のことば。

第二歴代誌20章、ユダの王ヨシャパテという人の信仰だった。

彼は自国の宗教改革を成し遂げた素晴らしい信仰者だった。

あるとき周囲の国々が同盟を結び、群れを為し、大軍勢となってユダの国を取り巻き、攻め入ろうとしていた。

王ヨシャパテは恐れた。

彼は神の前にへりくだり、上からの助けを求めた。

仮に戦になった場合、限りなく多くの兵士と国民が犠牲になることを察知したからだと思う。

勇気とは、豪気(豪勇な気性、強くて屈しない意気)であり、事のためには意地を賭け、命さえ賭けられる人、と昔は考えていた。

だが、クリスチャンになって変わった。

勇気とは己が弱さを認め、プライドと意地に流されず、平和と和解を求め、主を信頼し神の前に出る心、謙遜であり相手が誰であれ謝ることが出来る人、と考えた。

イエス・キリストから教えられた。

私の内で抵抗は少なからずあったが、それが真実と思った。

王と民は預言者ヤハジエルから主の言葉を聞いた。

「ユダの民よ、王よ。この戦いは主の戦いである。恐れてはならない。気落ちしてはならない。ただ、あなたがたの主を信頼せよ。」

「これは主の戦いである」と聞いたヨシャパテは軍勢を整えて出陣した。

だが、軍列の先頭は騎馬兵でも戦車兵でもなかった。

何と、今でいう聖歌隊であった。

聖なる飾り物で身を整え、神を賛美する者達だった。

敵の大群は山の向こうに満ちて迫っていた。

聖歌隊はこう歌った。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、神は伏兵を設けて、敵の軍隊を襲わせた。

これは主の戦い、であるなら私達が力で戦うのではない。

主が戦って下さるのだ。

ひたすら主を信頼して主にすべてを託すこと。

21世紀の日本が腹を決めるべきこと、それは既に主の戦いに入っているということである。

武器をもって戦うことはどこの国だって出来ること。

だが、幾千万の人々が傷つき、命を落とす。

70年前の悲惨な戦いを忘れたわけではあるまい。

仮に第三次世界大戦が起こるとすれば、最後は核戦争に至るであろう。

狂気に満ちた国に対し、狂気の対応を取るべきなのか。

人間とはどこまでも愚かに尽きる生き物なのだろうか。

私達は聖書の神、神のことば、ヨシャパテの勇気をどう考えるのか。

勇気とは豪気ではない。

何処までも主を恐れ、主を信頼し続けることである。

当時、ヨシャパテを学んだ私に対し、神は試みの時(TEST)をくださった。

それは住んでいる地域における奉仕活動の問題である。

日本のどこにでもある風土に溶け込んだ宗教祭儀に関連するものであった。

この土地に生まれ、この土地で育ち住んでいる者にとって逃げられないことだった。

一年で済むのだから、やり過ごそう、と当初は考えた。

しかし、学んだ聖書は「そうは言ってなかった」のだ。

この時のために、この日のために、今こそキリストの前に立て、と迫られた思いがした。

その為の証しは実にきつかった。

生涯で初めて味わうものだった。

学びは学びだから、聖書は聖書だから。

自身の中でも、それは既に通じなかった。

学んだということは、学んだ其処で生きるためである。

知ったということは知った其処で実践せよ、ということである。

腹を括らねばと思った。

ヨシャパテが信じた神は私の主である。

最後の一週間、食事が入らない。

理由は、信仰の証しのためだから、である。

その間、示されたことは、「もし日本のどこかで誰かが同じことで苦しんでいる人がいたとするなら、その人に励ましの声を掛けられるのは、この私ではないか。」

私の食事は祈りだけだった。

証しする当日、床にかしこまり、おでこを床に擦りつけて祈った。

「イエスさま、勝利をください。これは、あなたの戦いです。あなたの勝利をください。」

ヨシャパテのように。

ヤハジエルの予言を聞いた者のように。

数か月困惑し、ずっと悩み、ずっと祈り、一週間断食状態となり、何が何でも主の勝利を確信したいと祈って伏した。

あの場所へ出掛ける一時間前、遂に主を賛美した。

賛美できる者とされたのである。

私の中からすべての恐れと悩みは完全に消え去った。

しっかりとキリストの勝利を確信した。

戦いは既に終わっていた。

私が手にしたのは、主の勝利と主にある喜びであった。

人々に向かって言うべきは「私が信じる神は生ける神、私のキリスト、私が仕えるは唯一なる生けるキリスト」

証しはそこに尽きた。

凱旋の帰り道、あの軽やかな心と足取りは今も忘れない。

思えば行く道々もそうだった。

イエスはずっと初めから私を背負っていてくださった。

あのとき、私の人生に神が置かれた岐路で間違いなく、キリストの方へ大きくハンドルを切ったと数年後に確信した。

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