■主の霊は激しく下った/Ⅰサムエル記10:1~8
イスラエル12部族のうち、ベニヤミン族の系列でキシュの息子として、サウルは充分に裕福な家の息子として育った。
彼は非常に美男子で、誰よりも肩の上だけ背が高かった。
つまり外見は何処から見ても、他の人より見劣りしなかったのである。
そういう存在を神は民の王として選ばれた。
しかし、彼の中身はヤハウェ信仰の欠片も見えないものだった。
だが、当時の民はそういうサウルこそ王に相応しいと思った。
そして神は民の思いを尊重された。
しかし、である。
イスラエルは神がヤコブの子孫たちを、ご自分の嗣業として選ばれた民族である。
民の身勝手で人間的な欲望を、どうして神が受け入れられたのか。
だが、それさえも神の愛と思わされるのがサウル出番の理由だった。
人間は辛酸を舐めなければ学ばない生き物だ。
だから、神はイスラエルの為にサウルを選ばれた。
神は人間を最も尊いものとして慈しまれたのである。
この世が人間主導で動き出したとき、何が起きるのか。
それは彼らの望む通りに世を任せ、やらせて見るのが一番なのだと神は思われた。
だから、私達が早めの試練に出会うことは感謝なことでもある。
こと、遅きに至っての苦しみは耐えようもない程に苦しいから。
或る日、サウルと僕の一人は、いなくなった父の雌ロバを捜しに野山を捜し歩いた。
何処をどう探しても雌ロバは見つからない。
そこで二人は、その地の予見者の所に行き、雌ロバの行方を伺った。
その予見者がサムエルだった。
神はご自身の計画をサムエルだけには、すべて明かしておられた。
つまりサウルは雌ロバに導かれて、サムエルの所に赴いたのである。
そういう出会いは、神にあっては当然のことだが、人にしてみれば偶然と思う以外にない。
サムエルはサウルに対し、彼こそ新しい時代の王としてイスラエルを受け継ぐことを知らせた。
だが、サウルの心は直ぐに理解出来ず、心もついて行けなかった。
当然と言えば当然である。
一介の青年がいきなり王に抜擢されても面食らうばかりだった。
サムエルはサウルの身に起こる次なる出来事を前もって予見した。
それらは神からのものであって偶然ではないことを、サウルは改めて体験し、そこで初めて神を認識したのである。
そしてサムエルはサウルが新しい人に変えられることも予言した。
するとサウルの上に神の霊が激しく下り、サウルは神の言葉を預言した。
昨日まで、いや今の今までまったく普通だった人に、その様な不思議が起き得るのか?
そう、起きるのである。
現代であろうとも、時代に関係ない。
預言するかどうかは別として、そういう事態は起きるのである。
なぜ?
それは生ける神がおられること、その方が為されることだから、である。
他に理由は無いし、要らない。
信仰とは聖書を隈なく学んで持てるものではない。
信仰とは善人になることでも、道徳的な人になることでもない。
信仰とは神からの贈り物、つまり賜物であって、人から生まれるものではない。
理性も知識も理論も努力も、信仰を産むことは出来ない。
信仰とは神を信じること、これである。
人は信仰を育てることも出来ない。
人は信仰を用いる、使う、働かせることだけが、許されたことだと思う。
神から戴いた信仰であるから、栄光も手柄も名誉さえも、人に属さず帰せず、である。
だから、これを不満とする人は決して少なくない。
それを不条理にさえ思えてならないのはなぜか?
覚えよう、人間は己にこそ栄光を帰したいという性質をまるで本能の一部の如く、持ち合わせている。
私とて悩みである。
無意識のうちに、そういう思いが働いてしまうからだ。
それ自体で十分に罪である、と思う。
その後、サウルは叔父に出会った。
叔父が知りたかったことは、預言者サムエルが甥っ子のサウルに何を語ったか、であった。
だが、サウルが叔父に告げたのは「いなくなった雌ロバが見つかった」ということだった。
神はこのようなひと、サウルをイスラエルの王として選ばれた。
それはイスラエルが「我々も他の国の様に、民の上に立つ王が欲しい。」と望んだからである。
その理由だけだった。
神は民の望みをかなえて下さった。
気をつけよう、私達が今日、何を心の内で望んでいるかに。