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■王の上に神ありき/Ⅰサムエル記12:6~19

アブラハムを始祖として始められた神の嗣業(仕事)とは・・・

唯一生ける主、ヤハウェだけを神として生きる人間の営みと群れ、つまり神が求められた民族形成がイスラエルだった。

アブラハムからイサクへ、そしてヤコブと12部族へ、と人間は世代交代するも神は永遠であるゆえ、常に同じ方、唯一なるお方が彼らの父だった。

彼らヘブル人達がエジプトに移り住んだ400年間はエジプトに対する奴隷時代もあったが、それさえも民族の人口が爆発的に増え続ける時代でもあった。

 

やがて彼らがエジプトを脱出し、乾いた紅海を渡ってカナンを目指した40年の流浪の旅は無益の様に思えたが、神は彼らの神としてご自身を現されたことと、神の選民として生きる為の律法が示されたこと、更に忘れてならないことは不信仰な世代を交代させる為でもあった。

試練には必ず神の摂理が潜んでいる。

今しか見えない我々であり、単なる苦しみの時間の様にしか思えなくとも、神の摂理は必ずそこに有ると思う。

それは神がなさろうとすることを人間には決して知らしめないという永遠なる方の御目的があるからだ。

だが、やがて時至れば、摂理は必ず花開くのである。

聖書の神は摂理の神だ。

 

民族が増えれば当然に土地が必要となる。

約束の民、約束の地を得るために、遠い昔にアブラハムをウルから呼び出し、カナンに導かれた神は、ご自身のビジョンをアブラハムにだけ、そっと啓示された。

私達は創世記から読み進めるが、サムエル記あたりから遡って行くと、長いヒストリーの初めにアブラハムを名指しで招いておられた主に出会える。

聖書は神のロマンである。

特に旧約は神と人のロマンである。

 

サムエル記、アブラハムの末裔たちは今や王国を形成しようとしていた。

イスラエル民族が彼らの王を求めたとき、それは明らかに神からの独立でもあった。

通常、人間の子どもであるならば、成長し、やがて時至ればその父母を離れ、自分の家庭を築くべく自立して行く。

創世記もそう言っているではないか。

 

しかし、イスラエルの王国独立は父祖の神からの自立を意味しており、当然神から離れることだった。

それがどんな未来になるか、聖書の中で神に最も近く位置した預言者であり、士師(さばきつかさ)であったサムエルは未来を読み通していた。

そして、それ以前に神は見通しておられた。

 

「イスラエルの王」たる者は、民の王であると同時に神に対しては「しもべ」でなければならない。

同時に、王は「神の意向を民に伝える忠実な祭司」である必要が欠かせない。

王は世の王達と異なり、「神の選民の王」として「常に民を神の前に導く器」である筈だった。

つまり、イスラエルの王は常に神の下に自らを置かねばならない。

果たして、その様な国がこの世に成り立つことが可能なのか。

それが聖書の列王記、歴代誌から読み取れる。

そこには人間の弱さ、愚かさだけが時代と人間を透かして、通し絶え間なく浮かび上がっている。

 

殆どの王たちは神から離れて生きた。

自ら、自分の理想とする形ある神々を造った。

つまり当然の如く生ける神、ヤハウェを見捨てた。

彼らにとってのヤハウェはお伽話の神話の主人公でしかなかった。

迷うことなく国も指導者も民も、退廃の道を歩んだ。

すると神は他国を動かし、イスラエルを攻め苦しめられた。

それはイスラエルに対する懲罰に見えるが、真実は彼らをヤハウェに帰らせる唯一の方法であり、生ける神の存在を知らしめようとされたからだった。

 

21世紀の日本、確かにこの国に王はいない。

だが王は存在する。

どこに?

私達、それぞれの中にいる自分という王である。

確かに私の王は私である。

 

明確に、キリストを私の王にしたくない、私がいるではないか。

王にしようか、すまいか、迷う私がいるではないか。

仮にそうでなければ、キリストによって私が動かされている筈だ。

そうであるなら、キリストの力がもっともっと及ぶ筈だ。

意識せずして、キリストの勇気が私に満ち満ちている筈だ。

いかがだろう。

果たして私達は、遠い昔の士師記の時代に生きているのだろうか。

つまり、「その当時、めいめいは自分の目に正しいと見える(思う)ことを行っていた。」という士師記21章25節がこの時代も生きているのか。

 

私達は自ら求める者になりたい。

主のしもべ、主のはしため、として生きたいと。

そうすれば、もっともっと自由になれ、キリストの平安に満たされ、穏やかに生きられる。

イエスは「その道」を私達に示すために、この世に来られたのだから。

あのエデンの園で、神はひとに会うために訪れた。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩きまわられる神である主の声を聞いた。

そんな「霊拝」は不可能だろうか。

決して、そうは思わない。

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